特集2
EUから日本社会モデルを考える(下)

濱口 桂一郎





2.日本社会モデルの未来像をいかに構築していくか?
 今日ヨーロッパで繰り広げられつつある新たな労働組織という方向は、我々日本の労働関係者にとって、日本社会モデルへの接近?といいたくなるような内容を持っている。ところが、その日本で現在展開されているのは、今までの日本型の雇用制度、労使関係は「グローバル・スタンダード」に適合せず、これに固執するならば日本社会は早晩欧米諸国から立ち後れてしまうと恫喝し、早急にアングロサクソン流の流動的な労働市場を持ち込まなければならないと脅迫する「識者」たちの声なのである。
 筆者は1995年から1998年まで3年間日本を離れ、ヨーロッパにいたが、その間の日本国内の論調の変化は呆気にとられるばかりのものである。いまや、終身雇用などにこだわる化石企業に未来はなく、大失業時代を恐れずに労働ビッグバンを断行することが急務であり、ジョブレスリカバリー以外に道はない、かのようである。
 ここでは、その手の議論への反論をずらずらと述べる必要はないであろう。連合総研の俊秀諸氏はじめ、適切な反論が既にきちんと行われている。しかしながら、人類の歴史を振り返れば、そのような冷静な議論のみによって政策決定がなされてきたとは必ずしも言えないのもまた事実である。マスコミを巻き込んだある種のイデオロギー宣伝によって、なんとなく、今までの日本のやり方ではダメで、何事もアングロサクソンでなければという雰囲気が瀰漫し始めているように見える。

 本稿に何らかの意味があるとするならば、そのアングロサクソン的市場原理主義から時代遅れの極みと罵られてきたヨーロッパ社会モデルが、アングロサクソン型とは異なるフレクシビリティの概念をてこに、新たな方向に進もうとしているという事実、そしてその方向が実は戦後日本人が必死で創り上げてきた方向とかなりの程度共通するものであるという事実を日本人とりわけ労働関係者に示すことにあるであろう。
 フレクシビリティ概念の学問的彫琢、外的と内的、マクロとミクロ、数値的と機能的、死んだと生きた、守りと攻め等々は経済学者によって行われているが、最も重要なことは、労働のフレクシビリティは雇用の安定と相反するものではなく、逆に雇用が安定なればこそ労働はフレクシブルとなり、労働がフレクシブルなればこそ雇用も安定するという、一見アングロサクソン的には逆説に見えることが、日本社会においては現実として機能してきたという点であろう。そして、それは上で見たように、ヨーロッパにおいても程度の差はあれ現実となりつつあるのである。
 もとより、いままでの日本社会モデルがそのまま21世紀の欧州社会モデルになるわけでもなければ、日本自身の未来像として十分であるわけでもない。拙著の最後で述べたように、日本社会モデルは労働組織の柔軟さを主たる特徴とし、雇用の安定性と賃金・労働時間等のフレクシビリティを両立させ、教育訓練志向型であるという面で、欧州の将来像にとってのモデルである一方で、内と外を峻別し、外部者に対する公平さといった配慮に著しく欠ける面で、欧州社会にとって受け入れがたい面がある。
 ここでは、日本社会モデルをマクロな歴史的視点から位置づけることを試み、その問題点と未来の方向を考えてみたい。

(1)アングロサクソンモデル、欧州モデル、日本モデル
 忘れてならないのは、これは市場経済のあり方のモデリングであるということである。言うまでもなく市場経済のあり方は国によって異なる以上に、時代と共に大きく変わってきた。19世紀の自由主義的市場経済に対して20世紀は大きな修正を加えた。20世紀資本主義が19世紀資本主義とは異なるという点において、アングロサクソン諸国も欧州各国と異なるわけではない。その意味では、アングロサクソンモデルという表現には若干ミスリーディングなところがある。
 しかしながら、アングロサクソンモデルという言葉が広く使われるのにはそれなりの理由があると思われる。一つは、レーガン革命、サッチャー革命という形で今日世界中に影響を与えている自由主義化への先駆けを行い、自らをモデルとして提示したことである。だが、その背景として、そもそもアングロサクソン諸国には個人主義的な文化が強固で、20世紀資本主義といえども極めて市場志向的なものであったことが挙げられよう。労使関係はあくまで集団的という形容詞をつけた市場取引関係であったし、労働条件の規制は労働者の意志に反してまで国家が押しつけるものではなかった。
 これに対して、欧州各国の場合、19世紀資本主義といえども純粋の市場経済ではなく、国家の介入は多く見られた。そして、その20世紀資本主義は国家レベルでの福祉や労働者保護の充実という形をとる傾向が強かった。これは市場経済の後発性と言うことで説明されることが多く、その面は否定できないが、やはりそもそも欧州大陸諸国には非個人主義的な文化が強かったことが一定程度働いていたであろう。市場経済の発展段階論と比較文化論はからみあっているが、総じて言えば、アングロサクソンモデルは19世紀の自由主義市場経済に親和的なモデルであり、欧州社会モデルは20世紀の修正市場経済に親和的なモデルであったといえるのではなかろうか。
 問題は、20世紀末というこの時期になって、アングロサクソンモデルが「未来は我にあり」と勝ち誇っているかに見えることの意味である。
 一つの解釈は、再び19世紀資本主義の時代がやってきたというものである。近年マスコミや知的サークルを支配している論調が市場メカニズムにゆだねれば万事がうまくいくといわんばかりの大恐慌以前への逆戻りかと見まがうようなものになっていることを見ると、20世紀資本主義の次にくるのは19世紀資本主義への逆戻りであるという気もしてくる。もっとも、主唱者にとってはこれは道を踏み外していた20世紀から正道に復帰するだけということになるのであろう。
 歴史的視座にたって、20世紀資本主義の次にくる21世紀資本主義は、19世紀資本主義とは異なるものだが、アングロサクソンモデルと親和的であるという共通点を有しているのだという解釈もできるだろう。これに産業構造論を絡ませて、軽工業中心の19世紀、重化学工業中心の20世紀に続く情報産業中心の21世紀には再び市場メカニズムの意義が重要になるという議論をすることもできよう。
 これに対して、これは単なる世紀の狭間の狂い咲きに過ぎないと考えることもできる。21世紀の資本主義は20世紀の実績を踏まえて更に発展するものであって、19世紀に逆戻りするようなことはない。あるいは、21世紀の情報資本主義は20世紀の重化学工業型の資本主義とは異なった方向に向かうが、それは19世紀と共通する方向ではない。こう考えれば、現在は、新たなモデルが形成されるまでの端境期であって、それをいいことに時代遅れの19世紀モデルが羽振りを利かせているだけに過ぎないということになる。
 いずれにしても、欧州社会モデルとアングロサクソンモデルという言葉には比較文化論的要素が濃厚にあるものの、かなりの程度まで20世紀資本主義と19世紀資本主義の対比と共通するものがあると言って良いように思われる。
 これに対して日本の雇用システムひいてはその背景にある文化的要素も含めた日本の社会システムが議論される場合は、もっぱら比較文化論的関心のみがクローズアップされ、市場経済の発展段階論的関心はあまりなかったように思われる。
 しかしながら、日本の雇用システムに関する研究の蓄積は、これが欧州社会モデルと同時代性を有していることを示してくれる。このモデルが日本社会に定着してきたのは戦後になってからであり、戦前の日本社会は決してこの意味の日本社会モデルではなかった。欧州社会モデルが、19世紀資本主義に対するヨーロッパ型の20世紀資本主義であったのと同様、日本社会モデルは日本型の20世紀資本主義であったというのが妥当な理解であろう。
 この分野は現在なお研究が進展しつつあり、筆者の乏しい知識ではとてもそれをカバーできないが、大きく言えば、工職身分差別撤廃闘争や生産管理闘争に示された労働者の参加民主主義志向を、企業側も労働者の忠誠心の調達の回路に取り込む形で、ある種の労使妥協が成り立ったものと見てよいであろう。大ざっぱに言えば、欧州社会モデルが、19世紀的な剥き出しの資本主義に対する社会の反動として、産業レベルの集団的労使関係システム、国家レベルでの労働者保護や福祉システムを構築したのに対して、日本社会モデルは、企業レベルでこれらに相当するものを創り上げたといえるのではなかろうか。
 経済人類学の大きな枠組みで言えば、市場経済が労働という本源的生産要素をも商品化して「悪魔のひき臼」に投げ込んだことに対する社会の反動のあり方の相違と言えよう。欧州社会モデルが、企業は交換原理に基づく機構として残したまま、これとは別の場所に互酬・再配分の機能を果たす機構を設けるという方向に進んだのに対し、日本社会モデルは企業そのものに互酬・再配分機能を持つ共同体としての性格を付与するという方向に進んだといえようか。

 いうまでもなく、日本社会はその歴史と伝統からなにがしかの発想を得て、企業自体の共同体化という進化の道を進んだのであろうし、その意味では比較文化論的関心からの日本社会システム論にも一定の意味はあろう。しかし、ある部分はそのおかれた歴史的状況の中で労働者側と使用者側の戦略的決断によってその後の経路が決定したという面もあるはずで、多系的発展段階論的関心からの視点がより重要なのではないだろうか。
 欧州社会モデルが「大転換」の結果であるならば、日本社会モデルは「もう一つの大転換」の結果なのである。その意味では、現在欧州社会モデルと同様にアングロサクソンモデルからの攻撃を受けているのもまことに同時代的と評することもできよう。
 先にアングロサクソンモデルについて考えた際の産業構造論的視点から見て、日本社会モデルに未来はあるといえるだろうか。近年、日本モデルは20世紀の重工業社会に適合したものだったが個人の創造的能力が重要となる21世紀の情報産業社会には適合していないという議論が盛んに行われている。そういう際には必ずビル・ゲーツが引用される。
 しかし、改めて考えるまでもなく、情報産業社会ではみんながビル・ゲーツになるわけではなく、テレワークなど多様な形態であっても労働者として生活していくのである。最近日本でもネットワーク社会についての議論が盛んであるが、日本型組織との共通性に着目する見解も見られるようである。
 EUも情報社会については大変強い関心を持っており、社会政策関係でも1996年からハイレベル専門家グループの報告(中間・最終)「我々みんなのための欧州情報社会を建設する」、欧州委員会のグリーンペーパー「情報社会の暮らしと仕事:人々が第一」等の文書が出され、議論を呼んでいるが、これらは揃って、これからの情報社会に今までのヒエラルキー的労働組織は適合せず、ネットワーキング構造に基づき分権化された柔軟な労働組織をめざすべきだとし、情報通信機器が導入されれば個人対個人のコミュニケーションがむしろ重要になってくるとしている。
 21世紀はアングロサクソンモデルの時代というのは疑わしいようである。むしろ日本社会モデル、ニュー欧州社会モデルにこそ未来はあるのではないだろうか。

(2)日本社会モデルの問題点
 と、論じてくると、まるで日本社会モデルに問題は何もないかのように聞こえるが、もちろんそんなことはない。従来からいくつも問題点を指摘されている。
 日本社会モデルは雇用の安定性と労働の柔軟性を両立させたいいモデルだと言うけれども、実は労働者の人権を抑圧し、差別を組み込んだ望ましくないモデルなのではないかという議論である。雇用の安定性と労働の柔軟性を実現しているのは大企業の男性正社員本工層のみであって、女性や非典型労働者は排除されている。また、男性正社員本工層の労働の柔軟性というのはその実サービス残業と過労死に象徴される非人間的なものであり、決してヨーロッパの将来像にふさわしいものではないし、日本も早急に脱却しなければならないものである、と。
 差別論から考えよう。日本社会モデルがある面で労働者間の平等を実現したシステムである一方で、他面で労働者間の差別を前提としたシステムであることは否定できないと思われる。日本社会モデル成立の原動力の一つに工職身分差別撤廃闘争があり、ブルーカラーとホワイトカラーが基本的に同様の雇用管理を受ける点に日本の特色があることは言うまでもない。ヨーロッパでは現在でもホワイトカラーとブルーカラーでは適用労働法規が異なる国があるし、日系進出企業が持ち込んでトラブルの原因となる一つの要因にシングルステイタス条項があることもよく知られている。労働組織グリーンペーパーはまさにこの点を指摘し、差別解消を訴えているのである。

 他方、この日本的平等はその適用対象を決して博愛的に広げているわけではない。戦後長い間、女性労働者はこの日本的平等の対象外であった。これがもはや許されないことは言うまでもない。1970年代以来男女均等関係法制を積み上げてきた欧州諸国が受け入れられないだけでなく、日本としても女性差別の撤廃は緊急の課題である。ヨーロッパは日本の女性差別問題にかなりの関心を有している。彼らが「労働は日本に学べ」とは絶対に言えない一つの理由はここにあるとさえ思われる。
 しかしながら、正社員本工層と非典型労働者層との差別は、ある意味で日本的平等と裏腹の関係にあるとも言え、そう単純に論じられない。図式的に言えば、等しく会社にカネを提供する者であっても、株主に対しては会社の主権者として配当を最大化しようとし、債権者に対してはコストとして利子を最小化しようとするのが株主主権論的コーポレートガバナンスであるのと類比的に、等しく会社に労務を提供する者であっても、正社員本工に対しては会社の主権者として給与を最大化しようとし、非典型労働者に対してはコストとして賃金を最小化しようとするのが労働者主権論的コーポレートガバナンスであると言えるかも知れない。同じカネでも自己資本と他人資本が違うように、同じ労働でも自己労働と他人労働は違うのである。
 とはいえ、労働はヒトであり、正社員本工層と非典型労働者層の差別がかつての工職身分差別同様撤廃闘争の対象とならない保証はない。また、一部ではあるが、パートタイム労働者が長期勤続化するにつれ、正社員本工層類似の昇進システムが形成されてくる傾向もある。このことが今度はより他人労働性の強い派遣労働者を利用する原因ともなるなど、決して静止的な均衡にはとどまらないであろう。

 次にサービス残業と過労死である。これは、実は異なる2つの視点から議論されているように見える。一つは搾取論的視点であるが、日本社会モデルに関する基本認識が古典的な資本主義理解に立脚しているとすれば、見当はずれの議論にならざるを得ないであろう。もう一つはいわば自己搾取論的視点とでも名付けられようが、雇用の安定性と職務の柔軟性の上で、日本の労働者が自発的に過剰労働に追い込まれているというものである。サービス残業や過労死は特殊な例であるが、日本の特に男性正社員層の労働時間がヨーロッパ諸国のそれに比べてかなり長いことは明らかであり、このことの背景に職務ではなく「任務」を果たすことや業務の繁閑に労働時間で対応するといった柔軟な労働組織の特徴があることも否定できない。アングロサクソンモデルでは搾取論的に長時間労働となるのに対し、日本モデルでは自己搾取論的に長時間労働になってしまうと言えるかも知れない。
 これをどう考えるかというのは、ある意味で哲学的な問いである。労働者が自発的に長時間労働するということは、それが「疎外された労働」ではなく、自己実現的労働になっているからだという面は否定できない。自己実現とは自己搾取なのである。家庭に帰りたがらず職場を家庭のように執着する「会社人間」は現在もっぱら嘲笑の対象になっているが、労働者が職場を家庭のように感じることのできない資本主義社会を人間の本質である労働からの疎外だとして糾弾したのは若きマルクスの「経済学哲学草稿」であった。
 他方、この「自発的」というのが個人としての労働者としての自発ではなく、労働者集団としての自発であって、個人にとっては強制に過ぎないという観点から批判を加えることもできる。これもまた個人と集団の関係という社会哲学の根本問題に関わるが、個人の自発なくして上から集団の自発が降ってくるわけはないのであって、個人の自発が集団の自発を支え、それが今度は個人を自発に向けて強制するという相互的な円環をなしていると理解すべきであろう。集団的自己実現の中での個人的自己実現という枠組みの中では、自己搾取は集団的自己搾取という形態をとることになる。芸術家の自己搾取が非難されないように、スポーツ選手の集団的自己搾取は賞賛の対象となるが、会社人間はそうではない。しかし、それにはそれなりの理由がある。
 労働者が職場を家庭のように感じられることは、労働者自身にとっては幸福なことかもしれないが、労働者の家族にとっては必ずしも幸福とは限らないということである。日本社会モデルのアキレス腱は女性差別とともに職業生活と家庭生活の調和の取り方の部分にあるのであろう。それが21世紀の社会モデルとなるためには、この点について抜本的な修正が必要となる可能性が高いように思われる。

(3)柔軟な企業から柔軟な社会へ
  −ニュー日本社会モデルに向けて−
 職務ではなく任務を果たすという日本的な労働組織は、雇用の安定性と引き替えに労働組織の柔軟性を極限まで高めた。これは企業の競争力という観点からは他のいかなる仕組みよりも優れたシステムといえよう。しかしながら、労働者は単に企業の中で労働者であるだけではなく、家族の中では父親や母親であり、地域社会の中では住民であり、国家にあっては国民である。労働者としての柔軟性を極限まで追求することは、他の役割を極限まで縮小することになりかねないという深刻な問題を提起する。企業の必要に応じて柔軟に残業をこなし、配転、転勤をこなしていく労働者とは、彼ないし彼女が属している家族、地域社会等から見れば、魂を企業に奪われた存在ということになってしまう。欧州委員会があれほど推奨する「柔軟な企業」の裏面に存在するこの問題点こそ、我々日本人が真剣に取り組まなければならない最大の課題なのではないだろうか。
 この問題が集約的に現れているのが現時点では女性労働の問題である。柔軟な企業が求める柔軟な働き方をしようにも、家庭責任を負わされた女性労働者は柔軟に残業したり転勤したりするわけにはいかない。雇用における男女の均等を追求するというのは論理的には可能であっても、現実には困難にならざるを得ない。どうしても男性労働者並みに柔軟性ある働き方をしようとすれば、家庭責任を負わなくてもいいように結婚しないとか結婚しても子供を作らないという選択をすることが多くなり、これがつもりつもって子供を産まない少子化社会という事態に立ち至ってくる。

 ミクロには正しいことを全部足し上げるとマクロにはとんでもない間違ったことになってしまうということを合成の誤謬というが、柔軟な企業というミクロにはこんなすばらしいものはないシステムが、マクロには日本国滅亡に至る原因をなしてしまうというのだから、事態は深刻である。
 現在流行中の市場原理主義は、日本的雇用システムをやめて市場メカニズムに任せればいいと言う。しかし、先行き雇用の安定も期待できない中で、男性にせよ女性にせよ安定した家庭を築いていけるはずはない。実際、アメリカは家族の崩壊という面でも世界の最先端を突き進んでいる国である。確かに、労働ビッグバン、家庭ビッグバンで全ての人が原子のように市場に放り出されれば、新古典派経済学の思い描くユートピアが実現するかもしれない。
 ある種のフェミニズムは、家族なんてものは女性を抑圧する手段に過ぎないという考え方のようだから、家族ビッグバン大いに結構、市場原理主義と一緒になってどんどん押し進めようと考えているようである。こういうネオリベラルフェミニズムとでもいうべき一派にとっても、個人が原子化する社会はユートピアなのであろう。
 残念ながら、現実の人間はこういうすばらしきユートピアには住めない。家族の連帯、職場の連帯、これらを基盤にした社会の連帯というものがなくては生きていけない生き物である。
 日本型雇用システムはこのうち職場の連帯という面ではうまくいった。うまくいきすぎて、家族の連帯や社会全体の連帯を薄れさせてしまい、その隙間に市場原理主義が浸透してきた。企業はなお共同性を維持しようとしているのに、労働者の生活基盤である家族の方が単なる個人の寄せ集めになってしまうという傾向がとみに進んでいるようである。
 家族の中でその一員としてではなく単なる個人でしかなかった若者たちが、今職場の連帯をも拒否するフリーターをその最も極端な形として、安易に離転職を繰り返しながら労働市場に登場し始めていることを考えると、日本型雇用システムは結果的にじわじわと自らの存立基盤を掘り崩してきたように見える。こういう社会的基盤が次第にできてきているからこそ労働ビッグバンなどという議論が通用するようになってきているのかも知れない。これまた大変皮肉なことというべきであろう。
 我々が今取り組むべき課題は、こういう流れに対して家族の連帯の回復に最優先で取り組むことだと考える。そして、そのために最も重要なのは、企業が労働者を父親、母親として家族の元に返してやることであろう。「職業生活と家庭生活の調和」が男女全ての労働者に保証されることが、実は日本型雇用システムを維持するための遠回りに見えて一番大事な方策だということを、経営者の方々は是非理解してほしいと思う。
 短期的にはこれは日本型システムの強さを弱めることになる。家庭生活に配慮すれば今までのように残業も転勤も思い通りというわけにはいかないし、労務管理面にいろいろと硬直性がでてくるだろう。しかし、職務ではなく任務を果たすというのは企業内でだけ必要なことではない。何よりも家族の中で、そして社会の中でこそ必要なことのはずである。柔軟な企業から柔軟な社会へ、21世紀に向けた日本社会モデルの課題はここにあるのではなかろうか。