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視 点
悲観の増幅はもうやめよう
〜「日本人という躁鬱病」終止符を〜



 文部省統計数理研究所の「国民性調査」第10次全国調査(1998/10実施)の単純集計結果が最近発表された。1953年に開始されて以来、5年毎に継続して実施されているこの調査は、国民の価値観や意識動向を探る代表的な調査である。プリテスト、吟味調査による質問項目の周到な検討、厳密なサンプリングによる対象者の抽出、調査員による個別訪問面接聴取法の採用など、社会調査法の教科書に登場するような作法通りの調査としても名高い。実は、日本人のものの考え方の変化の様相や、将来につながる新しい動向などについて、今回の調査結果から何が明らかとなったのかは、今後の詳細な分析結果をまたないと、あまり確定的なことはいえない。とはいえ、単純集計からだけでも、現在われわれが直面している状況を理解する上での示唆は少なくない。ここでは、このデータのひとつの読み方について提起してみたい。

 調査時点からして当然ではあるが、今回の調査では、現下の深刻な不況が如実に反映される結果となり、新聞報道もまた、それを大きく取り上げた。

 まず、「社会」に対する満足度。「満足」と「やや満足」を足した満足派は28%で、前回調査(1993年)の50%を大きく下回り、この調査項目が登場した第1次オイルショック時(1973年)の26%とほぼ同水準にまで戻ってしまった。日本の現状に対する評価も下がった。特に顕著なのは、日本の「経済力」に対する評価で、「非常によい」に「ややよい」を加えたプラス評価は32%で、前回の79%の半分にも満たないのみならず、同じ質問が開始された73年の67%をも大幅に下回る結果となった。他の項目へのプラス評価も、軒並み前回調査から低下している(「科学技術の水準」93年89%→98年81%、「芸術」同68%→61%、「生活水準」同74%→53%、「心の豊かさ」同41%→26%)。

 将来の見通しはどうか。「ひとびとの生活は豊かになる」(15%)が、「貧しくなる」(50%)を大きく下回り、「ひとびとは幸福になる」(19%)よりも、「不幸になる」(28%)の方が多い。同じ設問項目があった前回調査(78年)では、「豊かになる」「幸福になる」は、それぞれ44%、37%で多数派だったのが、少数派に逆転した。「こころのやすらかさがへる」と思う人は、78年にも51%と過半数をしめてはいたが、今回調査ではさらに19ポイント増えて70%にも達した。将来に対するマイナス・イメージは、確実に膨らんでいる。まさに「お先真っ暗」である。以上要するに、「自信喪失の日本人」ということになろう。

 たしかに、いま日本列島を覆っている「時代閉塞感情」の雲は厚いように思える。3年連続マイナス成長の可能性大という未曾有の不況下の昨年秋に日本の現状と将来を問われれば、明るい答えを出せる人の方が少なくて当たり前ともいえよう。新聞を開けば毎日ろくなことはないし、「暗い」ということが一種の流行りでもある。何回も同じことを聞かされていると、ついついその気になってしまうのが人情というものだろう。

 ところが、今回の「国民性調査」の結果の中には、必ずしも「不満」ばかりが充満しているわけでもない。社会に対する満足度は大きく低下しているけれども、「仕事や職場」「家庭」「余暇・レジャー」「自分の生活全体」に関する満足度は、それぞれ51%(93年58%)、88%(同91%)、70%(同68%)、76%(同81%)となっていて、前回調査をそれほど下回っていないばかりか、「余暇・レジャー」のように満足度が微増したものもある。特に、「家庭」に対する満足度が9割近くで安定しているのが注目される。そして、「あなたにとって一番大切に思うもの」の筆頭にあげられているのが「家族」(93年40%)なのである。この設問は、過去30年遡ることができる項目なので、時系列の推移をみると、「家族」を「一番大切なもの」にあげる人の比率は、60年代の10数%、70年代の20%前後、80年代の30数%、そして90年代の40数%へと、一貫して上昇傾向を辿ってきた。大切な家族と過ごす家庭生活に満足なら、生活全体への満足度がそれほど下がらないのもうなづける。こうした傾向は、ひょっとしたら、社会への信認の揺らぎと「マイ・ホーム主義」への遁走かもしれない。けれども、少なくとも、よるべなき不安が蔓延しているわけではないようだ。この長期不況のご時世に、したたかな生活がそれほど揺らいでいないとしたら、むしろ多とすべきかもしれない。

 人々の生活の実相は、まさに悲喜交々である。その一端だけを捉えて、一喜一憂してもはじまらない。手放しの楽観が生む浮かれ騒ぎが問題であるのと同様に、悲観の果てに鬱病状態に沈み込むことも考えものである。にもかかわらず、「日本人」について語る時、われわれはしばしば、楽観と悲観の振幅を増幅してしまう傾向がある。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」といわれて自信過剰気味となった80年代後半のバブル景気がはじけてみると、今度は過度の自信喪失の90年代がやってきた。その行き着いた果てが、現在のわれわれが直面している状況である。

 「日本人ほど自らの国民性を論じることを好む国民は他にない」と、よくいわれる。それが、本当に「国民」の好みかどうかは、実はよく分からないけれども、論壇を賑わす識者たちの好みであることは、多分確かだろう。「国民性調査」も、戦後日本のアイデンティティ再建の動きの中で開始され、日本人の国民性を示す代表的データとして定着してきた。けれども、こうしたデータを駆使して、海外の研究者も加わった長期にわたる日本研究の果てに明らかとなった新たな研究の地平とは、実は、『日本人は「日本的」か』(杉本良夫、ロス・マオア、1982年)という論点だったのである。日本人をめぐるさまざま通説は、実はその一面をステレオタイプ的既成観念の思い込みで拡大したものにしか過ぎない。日本人の集団主義がよく指摘されるけれども、個人主義的傾向を示す反証はいくらでもある。非合理的・情緒的思考がみられる半面、ドライな人間関係観を示すデータだってある。実は、当たり前のことであるが、こうした様々な顔をもった人たちが、社会をなしてこの日本列島で暮らしているに過ぎない。

 何かといえば「そもそも日本人は…」という議論の立て方は、もうそろそろやめた方がいい。普遍的に正しければ、単にそのようにいえばよい。それが日本発であれ、欧米起源であれ、受け入れられるものは受け入れられる。ウォークマン、カラオケ、ファミコン・ゲームという日本発三大文化貢献は、相変わらず世界市場で受けている。キャラクター・グッズ、和製ポップス、和製カジュアル・ファッションなども、アジアを中心に支持層が広がりつつあるという。日本発「軽チャー」も、結構捨てたものではない。キャッチアップが終わったというなら、「日本人という躁鬱病」に悩むのをやめて、この列島に勃興しつつある可能性を耕すべきではなかろうか。

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