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特 別 寄 稿 1
日本の雇用戦略

高梨 昌(信州大学名誉教授)



 昨年、当連合総研主催で雇用政策研究セミナーを持つ機会を得た。このセミナーは日本の雇用政策の体系と将来展望、当面する雇用・労働政策の諸課題について7回にわたって私からの問題提起を受けてセミナー参加者と討議を重ねて学習する方法をとった。

 このセミナーの記録は「ゼミナール・雇用政策−人口減少下の雇用戦略−」(仮題)として、近く刊行するが、このセミナーでの私の日本の雇用政策に対する問題意識と分析のための仮説に就いて要約的に述べてみたい。

 「失われた10年」ともいわれる1990年代の日本は、バブル景気がハジケ、不況の長期化によって経済停滞に陥り、21世紀初頭の今日に至るまで、この経済的困難から脱却できずに苦吟している。日本経済の長期停滞は、膨大な不良債権の累積とこれに伴う金融不安、企業収益の悪化と企業倒産と再編成が進み、個別企業は、企業防衛のためなりふりかまわずの経営収支の改善と合理化を迫られ、解雇と賃下げによる完全失業率の上昇と貧富の格差の拡大など、労働者とその家族に過大な負担と犠牲を強いつつ、21世紀を迎えたのである。


1.市場原理主義イデオロギーの登場

 こうした日本経済が低迷、苦吟する過程でこの困難を乗り切る処方箋として登場したのが、自由競争的市場経済に過大な信頼を置く「シカゴ学派」に代表される新古典派経済学である。1980年代に英米でサッチャーリズムやレーガノミックスとして猛威をふるった民主主義を否定する「新保守主義」(ネオ・コン)の経済・社会政策へ理論を提供したのはこの学派である。

 私があえて、ここで、この学派の理論を俎上にあげて批判するのは、この学派は労働や雇用に関する政策や制度を全面的に否定する論理構造になっているからである。

 一つは、総需要管理政策、つまり完全雇用政策の理論と政策を構築したケインズ経済学の基本概念である「非自発的失業」の存在を否定していることである。失業は「自発的失業」で、より良い職業に就くための能力を向上させる充電期間であるから、自由放任すれば失業はゼロ、つまり完全雇用が実現すると説くのである。最近の日本で流行の「エンプロイアビリティ」とはこれから派生した用語である。しかし、この考え方は現実社会で起きている解雇・退職・失業の実態を無視した論理でしかない。

 二つは、自由な完全競争的な流動的労働市場こそが労働力という資源の効率的配分に最適で、完全雇用を実現する決め手であるから、この形成を妨げる労働・雇用慣行や政策を排除し、解体することが望ましいという政策論に立っていることである。

 たとえば、内部ならびに外部労働市場を団体交渉で市場統制を図る労働組合の存在の否定(事実、サッチャー政権はこれに全力投球)、失業保険制度は、失業者の生活救済をするために賃下げを抑止し、景気回復の妨げとなるからこれも否定、同様に賃金の底なしの低下の防止を図る法定最低賃金制も景気変動に対する賃金の弾力性を妨げる制度とみなして否定(事実、サッチャー政権はこれを廃止、ブレア政権で復活)。さらには、財政投融資政策を駆使して雇用の創出を図る完全雇用政策、つまりケインズ政策の否定である。

 今日では、この学派の影響力は、欧州ではかなり下火となったが、日本では一周遅れで後追して政治の表舞台へ踊り出て、これが猖獗を極めつつ21世紀を迎えたのである。

 2001年の小泉純一郎内閣の登場による「聖域なき規制の緩和・撤廃」と際限のない「構造改革」の推進がこれで、これを担うのが首相直属の「経済財政諮問会議」と「規制改革・民間開放推進会議」である。

 これらの組織は、一部の財界人と「曲学阿世の徒」と批判されても反論しがたい大学教授で占められ、労働研究者も労働組合代表もカヤの外に置かれ、厚生労働大臣すら正規メンバーから外されて運営されている。これは、首相のもつ強大な権限をバックにして、独裁的権力を行使できるため、厚労省に設置された労使と学識者の三者構成の労働政策審議会は全く形骸化され、機能停止状態に追い込まれている。

 このようにして、第二次世界大戦後の政労使の多大な努力と犠牲を払って形成された関係者の英知の所産である雇用・労働政策は全面的に解体され、すべてご破算にされかねない状況に追いつめられている。


2.労働市場の特性

 そこで、戦後日本の労働問題の実証的研究と雇用・労働政策の企画・立案に深く関わってきた専門家として、雇用と労働に関する規制の緩和・撤廃論者の政策提言に反論を加え、対案の提示を試みることとする。

 いうまでもなく、資本主義経済は、高度に発達した商品市場経済であるが、人間の肉体的精神的諸能力の総体である「労働力」は、人間の家族生活の営みによって長期間かけて産み育てられる能力であって、モノやカネとは違って商品市場経済によって生産・再生産され、景気変動や産業の盛衰に対応して生産調整できる「商品」ではない。しかし、資本主義商品経済を成立させるためには、労働力を商品に擬制するフィクションを立て、労働力の需給システムである「労働市場」を形成し、労働力の配分・再配分を行い、労働力の価格である賃金決定のための市場システムを構築する必要があった。

 このように「労働市場」は、商品市場の一種であるが、モノやカネの商品市場とは異なる特有の市場なのである。労働力をモノやカネと同様に取扱い、市場での自由な価格決定に委ねれば、労働力の生産・再生産に支障が生じ、労働意欲や労働能力の低下にとどまらず、労働力の質の劣化が進み、やがては、労働力供給の総量も枯渇し、資本主義経済それ自体が瓦解しかねないのである。

 ILOが、その目的及び加盟国の政策の基調とすべき原則として「労働は、商品ではない」とフィラデルフィア宣言を第二次世界大戦末期の1944年5月10日に高らかに掲げたのは、以上述べた意味においてであった。



3.労働市場流動化論の誤まり

 労働・社会問題研究は、労働市場は、モノやカネの市場とは異質の特有な市場であることに基づいて体系立てられた社会科学である。これは労働研究者にとっては自明の理であるが、甚だ遺憾なことに、アメリカへ留学して市場原理主義に洗脳されて帰国したエコノミスト達には、この認識もないし、知識もない。

 労働市場政策もしくは雇用政策は、労働市場の特性を基本に組み立てられなければならないが、市場原理主義信仰にかぶれているエコノミスト達は、参入・退出が自由な、いいかえれば採用・解雇が容易で、賃金も可変的な市場こそが柔軟で弾力性に富み、経済発展に寄与する理想的市場であると主張する。

 例えば、かれらは、「即戦力となる人材」を随時採用できる流動的市場こそ理想の市場であり、これを実現できるよう採用・解雇の容易な法制に変えるべきだと主張する。しかし、有能な人材は企業は定着を図り、手放すはずはないし、もし手放せば人材倒産である。また技術開発によって新たに必要な人材はあらかじめ外部労働市場に蓄積されているわけはない。この人材は技術開発の後追いで、社内養成によるしか調達できない。したがって「即戦力となる人材」の調達可能な市場は絵に画いた餅でしかない。

 また、最近、仕事の極端な細分化とマニュアル化によって、誰でも交替して仕事ができる流動的な市場こそが、経営の効率化のために望ましいとされ、この方式を採る企業が増えている。しかし、これでは、仕事のやり甲斐にしろ、仕事への意欲も誇りも育ちようがあるまい。上司へ苦情を言えば、「君の代りはどこにでもいる」と肩叩きされ解雇されかねない。これこそ、ヒトをモノと同一視する「労働力の使い捨て」経営の典型で、これでは人材は育たないし、会社へ定着し、意欲をもって能率よく働こうとしないのは当然のことではないか。

 すべてがこうした流動的市場となれば、仕事の能力の開発も労働能率の向上も、仕事への愛着心も湧くはずはなく、こうした企業は長期的に存続できまい。

 また、最近、総額人件費の削減のために、賃金の変動費化の手段として「成果主義賃金」の大合唱が起きているが、このように短期的な成果による処遇では、とりわけ「失敗がつきものの」技術開発は進まないし、開発技術者を流動化させれば、企業秘密が漏洩し、技術開発が阻害されるだけである。これでは、技術開発への投資意欲も湧くはずはないから、企業経営も経済も停滞化は免れない。

 そればかりか、安易に解雇できる市場が望ましいと流動化論者はいうが、「解雇」は仕事への誇りと尊厳や希望を無惨にも打ち砕く行為であって、仕事や職業に意欲をもって打ち込み、能力の自己啓発に励んで能率よく働くのは、仕事のやり甲斐と仕事へ誇りを満たせた場合で、これを否定するのが解雇であることに全く無知な見解でしかない。



4.新たな発想に立つ雇用政策を

 上述してきたように市場競争万能の労働市場流動化論には幾多の難点がある。いうまでもなく、今日、雇用政策として期待されているのは、仕事や職業に「希望と誇り」をもって働ける安定した雇用の実現を図る経済・経営のシステムを構築する政策である。

 そのために一つは、産業界は、採用・配置・昇格・昇進・人材育成など、人の使い方や処遇の仕方を抜本的に改める必要がある。たとえば、安易な雇用調整による解雇、賃下げや賃金体系の急激な変更、短期的な視点での成果主義の採用、さらには、労働の簡単化、マニュアル化による「労働力の使い捨て」経営などを極力抑制し、能力の自発的向上と労働意欲の発揮を促す「長期安定的雇用システム」を再構築することが産業界に求められている。もともと、企業間競争は「個人戦」ではなく、「団体戦」であるから、労働者間の競争を過度に煽る人事処遇ではチームワークは崩れ、企業の競争力が低下することを忘れてはならない。

 二つは、このような不健全な結果を生む人事処遇管理の発生原因は、市場原理主義に立つ各種の規制の緩和・撤廃の推進による企業間の過当競争にある。市場競争は万能ではないし、個別企業の利益の追求は、総体としての経済の利益とは必ずしも一致しない、いわゆる合成の誤謬である。個別資本の行動を総資本の視点から制御し、労働者の賃金と労働諸条件の規制(保護)の必要性は、戦前の1933年に大河内一男教授の『労働保護立法の理論』によってすでに指摘されていたのである。

 雇用・労働政策は労働市場統制のための政策体系で、失業保険法の時代のように発生した失業に対するセーフティネットとしての事後的対策としてだけではなく、雇用保険法の制定で高らかに掲げられた基本理念である「失業の予防・解雇の抑制」のための政策こそ必要とされているのが今日である。

 ところで、わが国は、21世紀の初頭には人口減少社会を迎え、これに触発されて人口減少社会での雇用問題が話題となりはじめている。

 私は、人口減少社会は、労働力不足問題を呼び起こすよりも、厳しい雇用・失業問題が起こる社会と考える。J.M.ケインズは20世紀前半の1937年に「人口増加は、貧困と悪徳という悪魔を呼び、人口減少は失業という悪魔を呼ぶ」と述べ、人口減少社会での雇用・失業問題は、自由放任主義にたつ市場経済システムでは解決困難で、財政金融政策を駆使した政府の公共政策によらなければ完全雇用の実現は困難であると提案している。私も同意見である。

 自由放任主義にたつ市場競争経済を唱えたアダム・スミスの「国富論」が刊行されたのは1776年のことで、当時は、人口増、アメリカ大陸や植民地の開拓による土地の増大、産業革命を起こした技術革新など経済成長を呼び起こすフロンティアが広大に拡がる市場拡大期で、これに応じて雇用が創出された。ところが、人口減少、土地のフロンティアが期待できない市場が飽和状態にある今日のような「成熟社会」では、自由競争市場経済を追求しても経済成長は期待できないから、雇用も創出されることはない。

 したがって、人口減少社会で起こることが予想される厳しい雇用・失業問題を解決するためには、政府の財政出動による投資と消費を喚起する「呼び水政策」としての公共投資政策の推進、付加価値生産性を高める技術開発とこれを担い支える教育・訓練など人材開発を公共資金を投入して強力に推進する雇用・経済政策こそが必要なのである。

 「市場原理主義」という18、19世紀の古典派経済学の亡霊が現代社会で跋扈して、不安定雇用の増大、貧富の格差の拡大にとどまらず、殺人、窃盗、詐欺など殺伐とした治安の悪い社会にわが国も転落させられてしまった。まさに「市場原理主義」が「社会を破壊し」「人間をも破壊」しているのである。こうした状況からの脱却が急がれる。その要の政策は良好な雇用の創出と雇用の安定のための完全雇用社会の構築である。
 


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