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寄 稿
労使関係の変容と人材育成の希薄化
嘉悦大学経営経済学部准教授 戎野淑子

 安定的かつ協調的であった日本的労使関係は、経済発展を担う人材の育成に貢献してきたが、今日、その労使関係が変容し、人材育成に大きな問題が発生している。


1.日本的労使関係の特徴

 日本的労使関係の特徴を一言でいえば、企業の発展、労働者の生活の安定・向上、さらに、日本経済の発展とが一体化したシステムにおける労使関係である(拙著『労使関係の変容と人材育成』慶應義塾大学出版会(2006年)参照)。日本企業は、国民経済的観点から、生産性向上によって生じた過剰人員を雇用するため、仕事の創出、すなわち、事業の拡大を行い、シェア獲得に力を入れる。労働者は、自らの雇用を確保し生活向上を図るため、企業の発展に向け、人生を託して働く。そして、生産性向上による成果は、労働者にも分配されたことから、国民の生活水準は上昇し、また、国内需要の拡大は企業の更なる発展をもたらし、日本経済の発展に直接繋がっていった。このような経済システムの中で、企業は自らの発展のために労働者の教育を積極的に行い、労働者は自らのために能力開発に尽力し、人材育成の実を上げてきた。


2.日本的労使関係の変容

 この日本的労使関係は、環境条件の変化の中で動揺していく。その最も中心的要因は、1990年代に経済の国際化が新たな段階に入り、産業構造等の変容によって日本的労使関係の立つ基盤に破綻が生じたことである。バブル経済崩壊後、日本経済は弱体化したが、他方、日本の対外直接投資および対内直接投資はともに増加する。日本企業が海外進出を図るということは、海外に性格の異なる労使関係を持つことでもあり、企業は、経済的、社会的、政治的条件に応じて、異なる労使関係を選択することが可能となった。つまり、日本的労使関係は相対的存在となったのである。また、対内直接投資の増加は、国内における国際競争の激化をも意味していた。日本的労使関係を持つ日本企業は、柔軟に人件費調整が可能な労使関係を背景とした外資系企業等と、国内でも直接競争することとなった。日本企業は、バブル経済崩壊後の弱体化した状況にあったこともあり、人件費の固定的な日本的労使関係は重荷となったのである。さらに、外国の投資家や経営者の増加による日本企業内部の国際化は、企業の内側からも労使関係の変容を推し進めていくこととなった。

 そこで、企業も労働者も自らのあり方を変質させていく。企業の中には、厳しい経済環境において、人件費の削減と柔軟化を図り、労働者との一体化した構造を忌避する行動も発生した。また、労働者も、自分の職業人生を、会社に託すことなく自分で考える人が増えた。つまり、日本的労使関係を労使関係のあるべき姿とする規範的思潮が崩れたことにより、自らの原理に基づいて判断し、行動する者が増加し、企業も労働者も多様化し、個別化していくこととなったのである。そして、日本的労使関係とは性格を異にする転職や非正規従業員が増加して、市場原理の影響を強く受けるようになった。市場原理は、需給バランスによってその時々の価値を示すが、その価値は常に変動しうるという「短期的」性格をもっている。また、成果主義による評価が普及し、短期的かつ個別的成果が追求される傾向が高まる。ここに、「個別化」及び「短期化」という性格を持つ、新たな労使関係が発生することとなった。もちろん、日本的労使関係を維持している企業・労働者もあるが、それとは異なる新たな「疎隔化した労使関係」が生じることとなったのである。


3.人材育成の希薄化

 このことによって発生した大きな問題の一つが、「人材育成」である。人材育成は「将来の価値形成」であり、時間と費用を要するものであることから、短期的性格を持つ労使関係とは矛盾をきたすこととなる。そのため、企業も労働者も、能力向上の重要性は認識していながら、企業の教育訓練も自己啓発もその実施率は低下傾向を示したのである。

 「個別化」という性格は、労働者の働き方や考え方を多様化し、労働者自らの将来ビジョンを一層見出しにくいものにしている。経営者団体の打ち出した「雇用ポートフォリオ」や「エンプロイヤビリティー」の影響もあって、労働者は企業と運命を共にしようとする意識が薄れ、企業の評価(内部労働市場における評価)は絶対的な目標となりにくくなった。また、従来までの労使関係が大きく動揺しているため、先輩の姿が必ずしも自分の目指す将来モデルと思えないことも多くなった。そして、働き方も考え方も多様化が進行する状況において、自分の職業人生の方向を定める指標として、目前に具体的に示されている市場評価に頼る動きが強まったのである。しかし、価値が瞬時に変わりうる労働市場の中から、将来の価値を読みとることは容易なことではない。労働者は能力向上の必要性を十分に認識していても、何をすればよいのか、何から始めればよいのかわからないという課題に直面し、方針を見出すことに苦労することとなった。

 他方、企業にとっても、教育投資が行いにくいという状況が生み出された。従来のように、企業と労働者が長期的に一体化している関係においては、企業が長期間かけて人を育てる仕組みが有効に機能した。しかし、今日では、企業が、将来に戦力となって活躍してもらうことを期待して教育投資を行い人材を育てても、労働者は、企業との関係を短期的なものと考え離職してしまうことも多く、教育投資が回収出来ないことも少なくない。これが、厳しい経営環境の中で、教育投資が減少し、即戦力となる人材の中途採用が増加する一因ともなっている。

 今日、日本的労使関係と疎隔化した労使関係とが交錯した状態にあり、安定した秩序ある新たな関係が未だ形成されていないため、企業と労働者との間には混乱が発生し、人材育成に大きな問題をもたらしているのである。能力向上は、自らの人生にとって重要であることは言うまでもないが、人材こそが企業を担い、日本経済を支えるものであり、その育成は焦眉の課題となっている。



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