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特 別 寄 稿 
転換期の日本社会と政策研究
−人口減少問題をめぐって−

エコノミスト 石水喜夫



  1 日本社会の持続的発展に向けて

 日本社会は、人口減少への転換過程の中で様々な課題を抱えている。一方、経済論壇は「人口減少」を題材に経済談義を繰り広げ、話題の提供には事欠かないが、論戦軸は不明確であり、政策論争は一向に深まりをみせない。

 1990年代半ば以降、日本型雇用システムは大きく揺らぎ、派遣労働者やパートタイマーなどの非正規労働者が継続的に増加してきた。経済論壇では、これらは「就業形態の多様化」と呼ばれ、成熟化し、多様化する労働者の意識にきめ細かく応えるものとして、積極的に評価されてきた。さらに、企業の中で人材を抱え込もうとする日本型雇用システムは、人口増加時代の産物で、若年者が減り高齢化が進展するもとでは、産業構造の転換にも対応できないとして、雇用流動化も声高に主張されてきた。

 こうした動きや考え方は、市場の資源配分機能を用いて日本経済を活性化させようとする「構造改革」の雇用・労働部分を構成している。現代経済政策の中枢は、市場中心主義に侵食され、グローバル化の中で、構造改革による市場調整システムの際限のない拡張が構想されている。

 しかし、日本社会で進行する現実をみると、市場の「みえざる手」への期待が大きすぎることが分かる。将来を展望し、長期的な視点から人を採用し、育成する人事戦略は、企業経営の要である。価格シグナルに導かれ短期的な利益ばかりを追求するのは、経営に主体性がなく、将来展望を持っていないに等しい。最近では、非正規労働者の一方的な増加にも歯止めがかかってきたし、日本型雇用システムをめぐる企業経営者の見方も、次第に変化してきている。さらに、市場経済そのものが私達の生きる社会の基底を蝕みつつある、という問題も意識されるようになってきた。社会にとって市場経済の運営は大切ではあるが、経済が社会という器を蝕むことがあってはならない。このままでは、とめどもない経済優先主義が家庭や地域社会をも侵食し、経済システムを支える人材を生み出すことすらできなくなるであろう。

 持続可能な社会をみすえた経済運営が求められる。働く者の立場に立った政策研究活動では、労働の実態を直視し、政策転換に向けた論戦軸を明確に示していくことが大切である。


  2 問題の多い人口減少経済論

 昨今の人口減少をめぐる経済談義をみると、経済成長率をめぐって、プラス成長が維持できるという説とマイナス成長に落ち込むという二説がみられる。「プラス成長派」は、人口が減少し労働力が少なくなっても、労働生産性の向上で十分カバーできるとしている。一方、「マイナス成長派」は、経済成長理論の成果をもとに、労働力の減少は、日本の持つことのできる資本設備の量を減らすことになり、設備投資の縮小を招きながらマイナス成長になると予測している。

 ところが、奇妙なことに、正反対の将来を予測しているはずの二つの説は、政策的結論となると、「市場重視」に収斂するのである。現代日本の経済談義は、ムードに流されているのではないだろうか。

 プラス成長派が「楽観派」であることは間違いない。それでは、マイナス成長派が「悲観派」かと言えばそうでもない。むしろ、人口が減少する経済を理想的にとらえようとする点では、「楽観派」といえるかもしれないのだ。

 労働力需給についても、労働力が減少し、成長制約となるため、相対的に人手不足になると見られている。規制改革に熱心な人々は、さらに論を進め、人口減少期には失業のリスクが減り、規制産業にしがみつく人も少なくなるから、ますます構造改革が進むだろうと予測している。さらに、私達の生活や働き方にも、多くの期待が散りばめられており、人口減少のもとでは、一人ひとりが大切にされ、ライフスタイルは多様化し、新しい心の豊かさが展望されるというのだ。

 果して、これらの将来予測は論理的な検討の帰結として導き出されたものなのであろうか。ムードに流された予測作業は、結局は多くの人がこうなって欲しいという願望の姿をあらわしたものにしかならない。


  3 マイナス成長派の不可思議な結論

 マイナス成長派としては、松谷明彦氏の『「人口減少経済」の新しい公式−「縮む世界」の発想とシステム−』(日本経済新聞社、2004年)がある。そこでは次のように主張されている。

 「これまでの企業経営では、先行きの需要増加をにらんで先行的に生産能力を引き上げておくというのが一般的な設備投資行動だった。先行投資が活発に行われた段階では、生産能力が需要を上回った状態になる。生産設備の一部が遊休化しているということだが、人口増加経済においては、こうした状況は長くは続かない。遊休設備があっても、企業が新規投資を控えて生産能力の増加を抑えていれば、やがては需要の方が追い付いてきて、遊休設備は急速に縮小し解消する。しかし、人口減少経済になると状況は一変する。企業が新規投資を控えて生産能力を一定の水準に保っていたとしても、需要が傾向的に縮小するから遊休設備は増える一方となる」。

 この人口減少経済の見通しは、非常に説得力のあるものであり、また、同時に、ある有名な経済学者の指摘したものでもある。それは、1937年2月26日、J.M.ケインズがロンドンの優生学協会で「人口減退の若干の経済的結果」と題して行った講演において語ったものである。曰く、人口増加経済では、投資需要は増加し、企業の将来への期待も高まって投資は拡大し、投資拡大がまた将来期待を高めていく。人口の増加は将来期待への楽観論を醸成し、多少の間違った過剰資本の蓄積があっても人口増加に支えられた成長で、一時的な過剰は速やかに解消される。ところが反対に、人口減少経済では、まったく逆のプロセスが発生し、需要は期待されたところをいつも下回り、ますます悲観を生み出して、投資は減退していく。

 ケインズの良き同僚であった、R.ハロッドは、この講演をもとに、『雇用・利子及び貨幣の一般理論』の有効需要の原理を、長期的な視点で経済問題を扱うことのできる体系に高めるよう努めた。それは、「『一般理論』の動学化」と呼ばれ、『動態経済学序説』として結実した。ハロッドの経済モデルを用いた『「人口減少経済」の新しい公式』の分析が、ケインズの主張へと誘われるのは、当然のことでもある。

 ところが、同書での政策提言は、ケインズのものとは全く異なっている。異なっているというよりは、正反対である。それは、次のように要約できよう。

 「需要と労働力の縮小に合わせて生産設備を適切に縮小していくことが今後の企業経営のカギとなるが、個々の企業にとってはかなり困難な課題である。経済全体、労働力全体ということであれば、かなり確度の高い予測が可能だとしても、個々の企業ということになると不確定要素が多すぎて設備投資計画に適合した長期の予測をたてることは到底困難。その点については、個々の企業の枠を超えて経済全体として対応するというのが一つの方法である。すなわち生産設備にかかるリース事業の拡大である。個々の企業にとっては設備投資にかかるリスクの分散となり、日本経済全体としても、より適切な生産設備の水準を確保できることにもなる。」

 リースという新しい業態の拡大によって、人口が減少する日本経済の発展が保証されるというのである。しかし、個々の企業で対応することができないような大きなリスクを、民間のリース会社に肩代わりさせることができるのだろうか。

 同書は、市場の調整機能を重視し、民間の活力によって日本経済の発展を実現するという提言を随所に盛り込んでいる。民間の知恵による資本蓄積の推進はもちろんのこと、成長産業の選択は市場に委ねられるべきであり、労働市場においても、終身雇用制はやめ、雇用流動化を前提にした仕組み作りを提言しているのである。

 企業家は、リスクを負いながら未来に向けて投資を行う。資本主義のエンジンは、こうした企業家の投資意欲に支えられているのだ。したがって、投資活動に支障が生じるということは資本主義の体制的な危機を意味することになる。ケインズやハロッドは人口減少が資本主義のエンジンに重大な障害を与えると考えていた。だからこそ、「消費性向や投資誘因とを相互に調整する仕事に伴う政府機能の拡張は、19世紀の評論家や現代アメリカの銀行家にとっては個人主義に対する恐るべき侵害のようにみえるかも知れないが、私は逆に、それは現在の経済様式の全面的な崩壊を回避する唯一の実行可能な手段であると同時に、個人の創意を効果的に機能させる条件であると擁護したい」(『一般理論』第24章)という時代認識が生まれてくるのである。

 ハロッドの理論を用いて「市場に委ねる」という結論は、あまりにアクロバットであり、その論理的な展開にはもともと無理がある。ところが、こうした無理を覆い隠して、やはり市場が大切なのだと思わせるところに、今日、経済論壇に蔓延するムードの恐ろしさがある。


  4 歴史を見誤ったプラス成長派

 現代日本社会において、経済政策を語る人々は、市場での資源配分機能の重要性を説いたA.スミスの主張に強い親和性を示している。しかし、それはムードに流されたものであり、論理的な検証に耐えられるのかどうか、今一度疑ってみる必要がある。論理的な検証とは、過去の経済学の蓄積を活かして考えるということであり、また、現代日本社会を歴史的視点でみつめるということである。

 その視点で、昨今の経済談義の主潮流を検証してみると、マイナス成長派の論は、ケインズ経済学の蓄積に照らして、結論が逆、ということになる。そして、日本の成長力に熱い眼差しをおくるプラス成長派については、歴史を見誤っていないか、という疑問を投げかけたい。

 経済のプラス成長は、労働力人口の減少をカバーできるだけの労働生産性の向上があれば、実現できる。プラス成長派は、それだけの労働生産性の向上は可能だとみているわけだが、問題は、その実現の方法である。

 プラス成長派の中でも規制改革に熱心な人々は、次のように主張している。

 「日本の人口は減少する。なかでも働き盛りの人口が減少する。しかし、一人当たりの成長率が低くなるかどうかは別のことである。労働力人口の減少によって、むしろ労働力人口あたりの成長率が高くなる可能性がある。労働力不足が圧力となって、これまで実現できなかった改革が進むからだ。人口が減少しても生産性が上昇すれば、一人当たりの所得は拡大する。もちろんそのためには規制緩和や公的部門の改革が必要であるが、それは大きな苦痛をともなうわけではない。規制産業にしがみつく人びとの数が、人口減少によって少なくなってしまうからだ。」(原田泰『人口減少の経済学−少子高齢化がニッポンを救う−』(2001年、PHP)より要約)

 規制改革を主張する人たちは、人口減少社会を人手不足経済とみているようだ。人口減少期は失業リスクが減るため、規制改革を大胆に進めることができるという見極めである。こうした主張に対し心配になることは、現代日本社会が、市場経済のダイナミズムに導かれて高い労働生産性の伸びを実現することができるのか、ということである。

 自由な市場経済によって、社会の発展が実現できるとみたのは、A.スミスであった。そして、その経済学は、土地、人口、技術革新など、成長のフロンティアが広大に広がっていく時代の経済学であった。『国富論』が公刊された1776年は、アメリカ合衆国がイギリス植民地から独立した年でもある。18世紀のイギリスは、アメリカへの進出を通じて市場経済規模を大きく拡大させていた。人口増加に伴って、国民の所得と消費は成長し、豊富な投資機会のもとに急速に資本蓄積も進んでいった。『国富論』の経済思想のベースには、こうした勢いのある経済があり、自由放任の市場経済に楽観的な考えを持つことができたのである。

 市場経済が旺盛に発展する時代においては、政府支出を削減すれば、それを補って余りあるほどの民間需要の拡張が見込め、資本蓄積はさらに進み、経済成長は高まり、国民の生活は急速に向上した。こうした時代だからこそ、政府による財政活動を抑制し、市場を通じて資源配分を行うことが志向されたのである。

 市場経済は、それが成長局面にある場合、ダイナミズムを持ち、様々なフロンティアを切り開いていくことができる。しかし、日本経済は人口減少の時代に突入しつつあり、歴史的には状況が180度転換している。企業の投資意欲の喚起に向け、労働力の質を高め、将来展望を切り開いていくような、強力な公共政策の推進なくしては、長期的な経済停滞は避けられないように思われる。


  5 何のため、誰のための経済学か?

 現代の経済論壇の状況は、残念ながら話題の提供をビジネスにした情報サービス業になってしまっているようにみえる。多くの利害を調整し、強力な公共政策を企画・立案することは容易なことではないが、しかし、社会に生じている様々な問題を真剣に検討し、その中から、望ましい公共政策をつかみとっていくことが必要である。本来、経済論壇は、こうした公共の政策フォーラムの場を提供すべきと思うが、商業主義が蔓延する現代日本社会では、こうした場は、思いを同じくする人々の連帯によって意識的につくりだしていくしかないのかもしれない。働く者が安心して暮らし、かつ、健全な経済発展に貢献することで豊かさを享受していく、という価値観に立った政策研究活動が、今日、特に、求められている。

 そこで、経済学の真価が問われることになるのだが、その主要な担い手であるアカデミズムは、ますます、現実との緊張関係を弱め、その内部的な世界に閉じこもる傾向を強めている。本稿で論じてきた、人口減少に関する見方とケインズ再評価の視点は、すでに『市場中心主義への挑戦−人口減少の衝撃と日本経済−』(新評論、2002年)において、公表したものだが、そのアカデミズムでの受け止め方には、驚くべきものがあった。一つは、大学人でない奇妙な闖入者を撃退しようというものであり、この点は、どこの業界でもあることなので理解するとしても、一体、何のため、誰のための経済学なのかという疑問がふつふつとわいてくる。

 労働経済学を代表する『日本労働研究雑誌』に、拙著の書評が掲載されたのは2002年7月のことであった。書評では「著者の労働市場と労働行政に関する理論的信念は、マルクスの労働価値説と搾取の理論に近い」とレッテルはりが行われた。これに対し「労働力という商品には特殊性があり、他の商品と同じように扱うことはできない。こうした事実認識は、戦後の労使の合意事項であり、政策・制度体系のベースとなっている」との反論を提出したが、とうとう雑誌は、その反論をとりあげることはなかった。

 日本の労働問題研究が、戦前から社会政策論として展開されてきたことは周知のとおりだが、労働経済学は、隅谷三喜男氏の「賃労働の理論−労働経済論の構想−」(1954年)によって、戦後日本に産み落とされた。同論文は、労働力商品の特殊性を踏まえながら、労働問題に市場経済論を適用しようとしたもので、それ以前のマルクス学説による成果を否定するものではなかった。人間と社会の関わりを追究する労働問題研究の分野はその体系化が難しく、アメリカで広がった市場経済論の成果を労働問題研究に応用し、学問的体系を築き上げようとした努力には、社会政策論の立場からも一応の敬意が払われた。

 しかし、労働問題という現実があり、そのアプローチのために市場経済論を用いるということが意識されていた時代から、アカデミズムも世代交代が進み、人間や社会の問題を扱うという現実感が薄れ、自らつくりだした抽象モデルを現実と信じ込むような研究者を生み出しているようにみえる。労働力の持つ特殊性から、市場調整システムの安定性に疑問を表明しただけで、「それはマルクスだ」として忌避する態度には驚くしかない。しかし、そればかりではない。現代労働経済学が市場経済論に埋没していくのは、その出生そのものに、とんでもない弱点が潜んでいるからなのだ。

 ケインズは『一般理論』(第2章)において、「労働市場」という理論モデルはあるが、それは賃金についても雇用量についても何ら説明を与えていないと指摘している。労働者と企業という狭い枠組みで考えれば、一見、市場調整的なプロセスが適用できそうにみえる。しかし、広く社会全体をみれば、賃金の切り下げは物価の下落を伴い、失業が解消するまで実質賃金を切り下げるなどという新古典派経済学の提案に現実性は乏しいのだ。ケインズは、長期停滞する当時のイギリスの実態を直視し、雇用を決定する社会理論として、有効需要の原理を展開したのである。

 労働経済学の礎石をなす、隅谷理論の射程は、ケインズに遠く及ばない。その欠陥は、高度経済成長に突入していこうとする、当時の勢いのある日本経済だったからこそ、覆い隠されていたにすぎないのだ。労働経済学が、アカデミズムの殻に閉じ籠もり、その伝統と方法論を墨守しつづければ、学問的に発展が行き詰まることは間違いない。

 日本社会は大きな転換期を迎えている。労働の実態を直視し、働く者の立場に立った理論・実証・政策の研究活動に、幅広い連帯をつくりだしていくことを強く提案したい。
 
 


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