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視点


望まれる医療ADR(裁判外紛争解決)の発展

No207 2006年7月

 医療事故が後を絶たない。今年2月には、お産の際の帝王切開手術で29歳の経産婦を死亡させた福島県立病院の医師が逮捕されたというニュースが流れた。

 医療事故や過誤を起こした場合、医療機関は警察など関係機関への届出義務を負っているが、事故・過誤と認めない医師や事故隠しをする医療機関も数少なくないとみられ、医療事故が実際にどのくらい起きているかを正確に把握することは難しい。医療事故の発生件数を推し測る資料として、最高裁判所がまとめた医療過誤民事訴訟件数を見てみると、近年増加傾向が続き、2003年から2年連続で1,000件を上回っていたが、2005年は999件で、過去最高だった前年より111件減っている。医療事故・過誤発生件数の増加傾向に歯止めがかかったと見ることもできるが、患者が死亡するような重大医療事故が無くなったわけではない。

 医療事故・過誤に遭った患者・家族が裁判に訴えることはある意味で当然のことであり、患者・家族が怒りと勇気をもってこれまでに多くの医療裁判を闘ってきたことにより、自浄作用の乏しい医療の世界において、「患者の人権」の視点が広がり、診療レベルの向上や安全対策の強化、情報公開の進展などをもたらしてきたといっても過言ではない。

 しかし医療裁判を闘う患者側の負担は世の中の人びとが思っている以上に大きい。患者・家族が裁判に訴える場合、まず弁護士に相談して調査を依頼し、証拠保全手続き(カルテやレントゲン写真等の入手)とその検討を行い、医師・医療機関の責任追及が可能と判断すれば相手方に回答を求めて交渉を開始する。この段階で示談が成立する場合もあるが、相手方が交渉を拒否したり不誠実な対応をしたときには、ここで裁判所に訴状を提出し訴訟を起こすことになる。この後は通常の裁判同様、相手方の答弁書提出、準備書面の提出、証拠調べ、専門家の鑑定、審理・判決という流れとなる。審理中に裁判所から和解勧告が行われることもあり、双方合意すれば和解解決ということになるが、この場合は医師の責任は明確にならないケースがほとんどである。第1審の平均審理期間は、通常の民事事件の約2倍強の長期間(2〜3年前後)であり、患者側の勝訴率は、近年高まってきているとはいえ3〜4割程度とみられ、他の一般的な民事事件に比べて低い現状にある。 

 医療訴訟が困難な理由について、医学を学びながら患者側に立って医療裁判に長年関わってきた加藤良夫弁護士(南山大学大学院教授)は、第一に過失の主張・立証のためには医学知識、医療現場についての知識が不可欠であるが患者、弁護士側はこの点についてほとんど素人である、第二に診療経過についての客間的情報が医師・医療機関に独占されていてほとんど患者側の手元にない、第三に患者の立場で協力してもらえる医師の確保が難しい、ことを指摘している。そして医療訴訟に立ちはだかるこうした専門性・密室性・封建性の「三つの壁」のうち、最も困難な壁は医療の世界の封建制の壁であると断言している。

 一方、診療側にとっても医療裁判は心理的、時間的に重い負担になっている。加藤弁護士によれば、多くの医師は医療の現状に決して満足しているわけではなく、裁判で患者側に協力したいと思っている医師も少なくないが、患者にも言いたいこと弁護士にも考えてほしいことがあり、様々な思いをもって裁判に協力しているという。勝ち負けの医療裁判は、事故を起こした医師・医療機関の責任を明確にし、被害を受けた患者・家族への損害賠償を判断するが、最大の問題点は、判決や和解が出ても、患者側と医師・医療機関側の対立が解けないことが多く、両者の信頼関係が生まれたり深まったりするケースはほとんど見られないことであり、患者や家族が受ける心の大きな傷は解消されないという事実である。また裁判では、再発防止のための医療事故の背景分析等の面で限界があるとも言われている。

 こうしたなかにあって、最近、患者側と診療側とのトラブルを裁判によらず当事者同士の話し合いによって解決しようとする医療ADR(裁判外紛争解決手続き Alternative Dispute Resolution)の試みが始まったことは、大いに歓迎すべきといえよう。

 斡旋・調停・仲裁などの機能をもつADRは、国際的にはすでに多くの国で取り入れられている仕組みであり、わが国でも1995年の製造物責任(PL)法の施行を契機に家電や自動車など製品分野別に相談センターなどが数多く設置されたが、日本のADR、特に民間型ADRは、対象範囲の狭さと宣伝広報活動の弱さ、中立性・信頼性の欠如、時効中断や執行力の未付与などの問題があり、権利救済の実効性に欠ける使いかっての悪いものであったために、これまで普及しなかった。しかし、司法改革の一環として2004年11月にADR法(裁判外紛争解決手続きの利用の促進に関する法律、2007年4月1日施行)が成立し、基本理念、国等の責務、民間事業者への認証制度の創設、時効中断・訴訟手続き中止等の特別効果の付与などが定められたことから、非公開性(当事者のプライバシー保護)、柔軟性、専門性、迅速性、時間と費用の低廉性、国際性などの特徴をもつこの「スマート」な紛争解決手段に各方面からの注目が集まりつつある。

 医療事故紛争の大きな特徴は、事実の究明が困難であり、患者・家族に激しい感情的葛藤が生じる点にあるが、医療ADRは、弁護士、医師、学識経験者、患者代表などからなる中立的で専門的な第三者機関が当事者双方から話を聞き、事実究明を行い、一定の目安を示すことで合意を促進させることができる。また医療ADRは、事実解明、原因究明とともに再発防止策と被害者救済が重要であるが、これについても第三者機関が間に入って当事者双方が納得できるように対話を進め、被害者をケアしていく効果が期待できる。

 医療事故・過誤の被害者をどうするかということは、本来医療の世界できちんと解決がはかられるべきことであり、医療ADRが順調に発展していくためには、医師・医療関係者のADR研修や手法の開発など実務面の他に、患者の権利法の制定や法律に基づく独立行政法人としての「医療被害防止・救済センター」の設立(これらの詳細については山崎泰彦・連合総研編著「患者・国民のための医療改革」参照)など、より患者の立場に立った法制度の整備が不可欠である。裁判によらない医療ADRの発展を通じて、患者と医師・医療関係者の新しい信頼関係が構築され、医療の質・診療レベルが飛躍的に向上していくこと、そしてなによりも、日本が「訴訟社会」への道ではなく「信頼社会」への道を歩むことを願う。(地の塩)


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