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寄 稿
格差から希望へ
東京大学社会科学研究所 助教授 玄田 有史

 今年度の「経済情勢報告」もそうだが、最近の政治経済の話題は、もっぱら格差問題だ。マスコミなどでも格差がよく話題になるが、そもそも格差とは何か、格差は許容すべきか否か、解消すべきとすればその適切な方法は何かといった、冷静で落ち着いた議論はまだまだこれからだ。その意味で、今回の報告が格差問題についてどのような新たな視点や論点を提示しているのか、個人的にも楽しみにしている。

 格差に続いて、最近は貧困問題も関心を集めつつある。努力した人がそれ相応の報酬を獲得する結果として所得格差が生まれること自体は、けっしてすべてが否定されるものでもないだろう。しかしその一方で、努力や能力を発揮するチャンスすらないまま貧困状況に甘んじ、ときに生存権すら脅かされる状況が広がっている結果が格差拡大だとすれば、そこにはなんらかの対策が必要となる。

 最近、京都大学の橘木俊詔教授が、大学院生の浦川邦夫氏との共著として『日本の貧困研究』(東京大学出版会、2006年)を出版した。日本における貧困問題を本格的に実証研究した力作で読み応えがある。そのなかでは貧困問題が、高齢者、若年、母子家庭などで深刻化しつつあることが指摘されている。貧困化が進むと、その弊害は経済的弱者に重くのしかかる。2005年の国勢調査を集計した中間結果が総務省から報告され始めたが、それによると日本でもいわゆる「シングルマザー」は増えつつある。

 シングルマザーは中年層の離婚による場合以外に、10代の未婚女性が母となるケースも増加している。格差や貧困の一つの結果として、シングルマザーの問題はこれから大きくクローズアップされるだろう。イギリスで「ニート」が社会問題化したとき、10代の無業者がその後失業状態に陥りやすいことと並んで、将来シングルマザーとなって困窮化する状況が生まれやすい事実にも警鐘が鳴らされた。

 格差や貧困の問題がどの程度深刻であるかをデータから把握するときに、一つのポイントとなるのが「単身世帯」の取り扱いである。一人暮らしの単身世帯には、独身貴族を満喫するリッチな人々も含まれるが、所得水準がきわめて低い場合は相当多い。特に高齢者の単身世帯のなかには収入が少なく、それまで蓄えた貯金の取り崩しなどでギリギリの生活をしているといった状況も珍しくない。

 加えて単身の問題は、高齢者の問題にとどまらず、若年層にも広がりをみせつつある。総務省「就業構造基本調査」を特別集計した筆者の試算によると、15歳以上35歳未満の若年無業者のうち、配偶者がおらず、単身で生活している人々で年収が300万円未満の人々は、1992年時点では約11万人だったのが、2002年には約27万人まで急増している。無業の単身若年の多くは、別に暮らしている親や家族からの援助によって生活している。世代を超えて所得水準の低い単身世帯が増加していることが、格差や貧困が深刻化している統計的根拠の一つになっている。

 単身世帯が増えつつある理由は、未婚、離婚、死別など様々な原因がある。結婚をしない人々が増えること自体は、もちろん本人の自由であることは言うまでもない。しかし、国立社会保障・人口問題研究所「出生動向基本調査」によると、結婚のきっかけとして、職場や仕事を通じて出会うケースが調査以来ずっと首位を占めていた。それが2005年に行われた最新の調査結果ではその地位を、はじめて友人を通じての出会いに譲った。若年層にとって、就業機会が制限されてきたことは、収入を得にくくしただけでなく、人生のパートナーに出会うチャンスすら奪い、結果的に単身者を増やしたともいえるのである。

 格差や貧困問題を語るとき、社会学者の一部からは「社会的排除」という概念が示されることもある。格差や貧困は、単に収入の差やその少なさが問題なだけではなく、社会との円滑な交流を排除された存在の出現として、捉えるべきだという考えだ。排除という言葉自体は、やや強い価値観を含んだ言葉であるため、慎重に扱う必要もあるが、現実に社会的に孤立した人々が増えつつあるという懸念は拭い切れない。

 ひきこもりやニートのように就職を断念した若年や中高年には、社会とのかかわりを持つことが出来ず、就業や地域との交流を欠き、ときには頼れる家族すらなく、単身で暮らす場合も多くなっている。高齢社会が進むと、家族もなく社会や地域と遠く距離を置かれた孤独な高齢者も増えるだろう。単身世帯の置かれた経済状況や社会的孤立状況をより粒さに調査し、その状況に応じた適切な対策が望まれる。

 ところで、私が所属する東京大学社会科学研究所では、2005年より希望学というプロジェクトを開始し、希望と社会の関係を研究している。希望を喪失している人々の社会的背景に関する全国調査を実施したり、本年9月には岩手県釜石市に約30名の研究者が一週間滞在し、産業、文化、歴史、福祉、政治など様々な観点から、のべ200名の方々に対し聞き取り調査も行った。

 希望学の調査からは、希望の形成には人と人とのつながりが重要なことが明らかにされつつある。希望を持って行動している人には、豊かな友人・知人関係が形成されていることがアンケートからは示されている(詳細は「希望学」(中公新書ラクレ、2006年))。釜石調査でも地域の内外を越えた人的交流から希望を形成する様々な事例が多く語られている。事業が行き詰った局面を大事に育ててきた若手社員との運命共同体的関係によって乗り越えてきたベンチャー企業家。「自分のことをわかってくれる人が3人いれば、苦しいことも必ず乗り越えられる」と自らの経験を訥々と語る老人。

 変わり行く社会環境のなか、人と人とのつながりをどのように再構築していくか。格差や貧困の問題にファイトしていくため、労働組合も、個人も、そして社会も、改めてこの本質的な問いに取り組んでいかなければならないときが来ている。



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