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寄 稿
若者はなぜ今、スピリチュアルな世界に向かうのか
千葉大学法経学部教授 広井 良典

 本稿の基本テーマは「若者とスピリチュアリティ」であるが、一つだけ最初に断っておく必要があるのは、「スピリチュアリティ」という言葉についてである。数年前までは、たとえば私が大学の講義やゼミでこの言葉を使うとき、「この話題に関してはスピリチュアリティという、日本ではあまり使われない言葉があって…」と前置きをしなければならなかった。ところが最近では、あらためて言うまでもなく、「スピリチュアル・カウンセラー」といった人がテレビにも出るようになり、あるいはそれ以外でも、スピリチュアリティ関連の“見本市”なども行われるようになっている。私はこれらを最初から否定するつもりはないが、最近の日本では「スピリチュアリティ」という言葉にそうした独特のイメージないしバイアスが強く付着しているので、こうしたものはいったん取り除いてここでの議論を進めたいと思う。

 スピリチュアリティということが論じられるようになった文脈はいくつかあるが、私の身近なところでは、一つは終末期のケア(ターミナルケア)に関して、「死の受容」あるいは死生観ということが医療分野その他で1970年代前後から大きく議論されるようになった流れがある。またWHO(世界保健機構)が、「健康」の定義について、従来の「身体的physical、精神的mental」に加えて「スピリチュアル」という要素を新たに追加する、という検討が1990年代になされたことも、「スピリチュアリティ」という言葉を世に広める背景の一つになった。もともとこの言葉はキリスト教的なニュアンスを背負っている言葉だったが、以上のようにこの言葉が広い意味で使われるようになった際、その主眼は「特定の宗教や教義を超えて、人間が元来もっている、物質的なものや現世的なものを超越したことがらに関する関心」という点にあった。

 私としては、「死生観」ということにもっとも深く関わるのがこの「スピリチュアリティ」という言葉であるとここではひとまずおさえておきたい。そして死生観とは、あえて一言でいうならば、「私の生そして死が、宇宙や生命全体の流れの中で、どのような位置にあり、どのような意味をもっているか、についての考えや理解」とでも表されるような内容のものである。もっと簡単に「“この私はどこから来てどこに行くのか”、という問いに一定の答えを与えるもの」と言ってもよい。

 スペースも限られているので結論を端的にいうと、私自身は、現在の日本においては「死生観の空洞化」ともいうべき状況が生じており、そうしたことが「若者のスピリチュアリティへの関心」の基本的な背景にあると思っている。そしてこれは次のような時代状況と深く結びついている。

 すなわち、戦後の日本、特に高度成長期の日本においては、“戦前”への反省も加わって、また基本的には「物質的な富の拡大、成長」ということが人々あるいは社会全体の圧倒的な関心事となったことから、「死」といったテーマは全く関心の外に置かれた。私の主観的な印象を記せば、そうした傾向は特に団塊の世代前後の人に強いように思われる。人間のライフサイクルにそくして言えば、死といったことに主たる関心を向けず、あるいは視界から外して、ひたすら「上昇、拡大、進歩」を志向するようなメンタリティが支配的な時代がしばらく続いたのであり、言い換えれば、物質的な豊かさの実現がそのまま「生の充実」や「幸福」をもたらしてくれるという感覚が共有されていたのである。

 しかし人間はそうしたものだけでは決して生きていけるものではない。何より、すべての個人が死ぬことは確かな事実なのだから、上記のような死生観は、その内容は各人によって異なるものであるにせよ、必ず求められるのである。

 繰り返すように戦後の日本社会は、こうした問いを脇に置いてきた。また、そうしたこと―人間の生や死にどういう意味があるのかといった話題や死生観に関すること―は、高度成長期をへて過剰なほどの物質的な豊かさが実現された後も、家や学校で正面から取り上げられることも話題にされることもなかった。

 こうして死生観の空洞化ということがはっきりと現実のものとなる。それは死の意味がわからないということであり、同時に「生の意味づけ」がよく見えない、という感覚である。こうした状況の中で、一部の者はカルト的なものを含めて様々な宗教に引き寄せられることになる。

 振り返ってみれば、ある意味で「経済成長」、または物質的な富の拡大ということ自体が、戦後の日本人にとってひとつの強力な“宗教”として機能した、と言えるのかもしれない(この意味では、「会社人間」のサラリーマンにとって、会社は半ば“教団”的なコミュニティないしよりどころであったといえなくもない)。しかし時代はもはやそうした浮揚力をもつ時代ではなく、また生における物質的な富の拡大が、死をも背景に退けさせられるほどの輝きをもって受け止められる、といった状況ではなくなっている。まさに死生観の構築ということが鋭く求められているのである。

 筆者の身近な経験を述べるとすれば、死生観の空洞化ということは、大学において20歳前後の学生たちに接していても様々なかたちで感じられることである。繰り返すように、死生観に関するようなテーマ、つまり宇宙や歴史の中での人間のいる位置や生と死の意味といったことについて、戦後日本の学校教育ではほとんど正面から取り上げられることがない。だから、このような基本的な問いに対するある種の「飢餓感」のようなものは、特に現在の若い世代などには相当強いものになっているように私は感じている。しかも、こうした話題が学校や家庭で正面から取り上げられない―特に「宗教」に関わることは戦後の日本の公的な空間ではほとんどタブー視される―ぶん、生や死の意味というテーマに関して、むしろアニメや音楽といった「サブカルチャー」がそれを補う、いや補うというより主要な役割を果たしていると思えるのである(手塚治虫の作品、アニメの「エヴァンゲリオン」、様々な音楽の歌詞や映画等々)。

 そしてこれは若い世代に限った問題ではなく、「成長」の時代以後の現在の日本社会全体にとっての、あるいは日本人全体にとっての、「時代の問い」ともいうべきテーマである。私自身の認識では、ある意味でこのテーマにもっとも鋭く向かい合う(あるいは向かわざるをえない)のが、カイシャを退職して以後の団塊の世代であり、それはより根本的な「もうひとつの2007年問題」といえるのではないか。

 ここでは死生観の中身それ自体について記す余裕がないが、いずれにしても「若者とスピリチュアリティ」というテーマは、以上のような大きな文脈の中で理解されるべきものと私は考えている。

(参考文献)広井良典『死生観を問いなおす』 ちくま新書(2001年)



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