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前理事長コラム
『時代を見つめる』
古賀 伸明

「千年の釘」

File.422019年6月26日発行

奈良・飛鳥の地にある法相宗大本山の薬師寺は、680年天武天皇により発願され、692年持統天皇により本尊開眼した。1998年には世界遺産にも登録されている。1981年の再建を取り仕切ったのが、「最後の宮大工」と呼ばれた故・西岡常一氏である。

西岡棟梁は、薬師寺再建にあたり樹齢千年の檜を使って千年耐える建物をめざした。檜は寿命が長く、湿気の多い日本の気候に適しているとのことだ。そのため、彼が千年もつ釘を造って欲しいと依頼したのが白鷹幸伯氏である。

白鷹氏は1935年愛媛県松山市生まれの鍛冶職人であり、日本職人名工会殿堂名匠である。白鷹氏の父親は、松山の野鍛治。学校卒業後、一度は家業を手伝うが、26歳で上京し日本橋の刃物商「木屋」に在職中、西岡棟梁と出会い、その後の白鷹氏の人生を決定付けたという。後に「西岡さんと出会わなければ、松山に帰ってきても、目先の客相手に包丁しか作らなかっただろう。しかし、西岡さんと出会ったおかげで、鍛冶屋としての夢が持てるようになりました」と語っている。

現代の高炉から大量生産される釘は不純物が多く、20~30年経過すれば、腐食して釘の機能を失ってしまう。しかし、古代の釘・和釘は、砂鉄を炭で還元して造った不純物が極めて少ない純鉄を鍛造して仕上げているので、錆びも表面だけで中に侵食していくことが少なく千年以上にわたり役割を果たしてきた。

白鷹氏は千年の年月に耐える「千年の釘」の鍛造に取り組み、薬師寺西塔用の和釘が長さ30㎝で6900本、その後、薬師寺回廊や大講堂など約2万本を鍛造したといわれる。

先日、都内にて2017年6月に81歳の生涯を閉じた追悼展「鐵千年の命 鍛治 白鷹幸伯の生涯」を見る機会に恵まれた。コンパクトな展示会であったが、彼の各年代ごとの作品が展示され、鐵と共に生きた生涯を物語っていた。

初めて和釘を見たが、その形は現代の釘とは全く異なっていた。現在の釘は、頭は平で胴は同じ太さで先端は尖っている。一方の薬師寺の再建に使われた和釘は、先端が細く真中は表面がでこぼこして膨らみがあり、頭に近い部分は再び細くなっている。その理由は、檜に釘を打ち込むと、木と釘の間に隙間ができるが、檜の繊維は元に戻ろうとする性質で膨らみ、隙間を埋めて密着する。頭の部分が錆びて胴体だけになっても釘は抜けないとのことだ。

展示品の中で、平城遷都1300年の年にあたる2010年に復元された、平城京大極殿の大和釘は圧巻であった。AI等の新技術の話題が多い中で、一千年の建築物を造る日本の伝統文化の重みと、匠の技を改めて感じた。そして、久しぶりに心が落ち着いた空間と時間を過ごすことができた。

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