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前理事長コラム
『時代を見つめる』
古賀 伸明

「忘れ得ぬ情景」

File.592020年11月18日発行

月日は流れても、その情景を鮮明に覚えていることが、誰にでも一つや二つはあるだろう。

私にとってその一つは、ちょうど半世紀前1970年の三島事件だ。

50年前の11月25日、三島由紀夫が私兵組織ともいえる「盾の会」のメンバーと東京都新宿区の自衛隊市ヶ谷駐屯地に籠城、決起を促す演説後に割腹し同志の介錯によって絶命した。

当時、私は大学受験に失敗しいわゆる浪人の身であった。福岡県北九州市で将来への不安と期待が混在する多感な日々を過ごしていた時期だ。

その日は真面目に予備校に行っており、早めに帰宅するとすぐに母親が「三島由紀夫が自殺した」と告げた。今でもその時の母の顔も含めた情景が明確に蘇る。母親は三島由紀夫に特段関心があったわけでもなく、私の机の上に三島の本があったため、私に知らせたのだと思う。

受験勉強一色でなければならないはずの私は、友人との交流や読書の毎日を送っていた。読書の対象の作家は思いつくまま、まさに乱読である。

著名な作家の作品とともに、昭和30年代の芥川賞作家、例えば、遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎、北杜夫などとともに、三島由紀夫。お分かりのように脈絡のない相当な乱読であり、何冊かを並行して読んだりもした。そういえば左翼的な思想の持ち主と言われたが、東大紛争の時期には三島由紀夫と交流していたという39歳で死去した高橋和巳も。

三島の作品では、今では日本文学の最高傑作のひとつといわれる「豊饒の海」四部作の第一巻「春の雪」、第二巻「奔馬」、第三巻「暁の寺」が単行本として刊行されており、最後の四巻を待っていた頃である。三島は最終稿を編集者に渡し、その日に自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かった。第四巻は翌71年に「天人五衰」として刊行された。

当時の情景が鮮明に蘇るのは、多感な時期に起こった割腹自殺という強烈で複雑なこの事件は何を意味するのかが、今でも自分の中で消化しきれていないからだと思う。

興味深いのは、この事件の1年半前の1969年5月13日のことである。警視庁からの警護の申し出を断り単身東京大学駒場キャンパスに乗り込み、当時大学を占拠していた東京大学全学共闘会議(東大全共闘)の1000人を超える学生との討論会で、この事件を予告するような発言をしたとのこと。

また、当日司会を務めた東大全共闘の木村修氏は東大卒業後地方公務員となり、定年退職後はかつて敵対した三島由紀夫の文学・思想を研究し続け、今もなお「三島は何故あの時割腹自殺をしたのか」を思案し続けているらしい。

それらから、私自身の長年混沌としたこの事件のもつ本質のヒントが得られるかもしれない。

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