連合総研

連合総研は働く人達のシンクタンクです
JTUC Research Institute For Advancement Of Living Standards

文字サイズ

研究員
の視点

優先順位を考える

浦野 高宏2019年12月26日発行

 だいぶ昔の話だが、観光で松本市内を散策していて車の窓を蹴破ったことがある。

 いったい何をやってるんだと驚かれるかもしれないが、それはまあそこだけ聞いたらそのとおりで、実はそれには理由があるのである。当たり前である。いくら私でも、目に付いた車にいきなり蹴りを入れたわけではない。

 まだ暑い、夏の終り頃だった。散策中にふと見ると、10人ほどの人々が路肩に駐車した乗用車の窓をたたいたり、車を揺すったりしている。

 変わったことをする人たちがいるものだと近づいてみると、後ろ部座席に子供が倒れているではないか。幼稚園に入るか入らないぐらいか。車のドアにはすべてロックがかかっていて、どこも開かない。窓もすべて閉まっている。車の中は相当な暑さであろうことが察せられた。周囲に親のいる様子もない。寝ているのか熱中症で意識を失っているのかわからないが、子供はぐったりとしている。

 つまり人々は、その子供が熱中症で倒れている場合を心配して、車を揺することで起こし、ドアのロックを解除させようと試みているのだ。しかし取り囲んだ人々がいくら車を揺すっても窓ガラスをたたいても、一向に反応はない。仮にいまは眠っているのだとしても、その日の暑さではいずれ熱中症になるであろうことは、だれの目にも明らかだった。

 状況を把握した私は、即座に窓を蹴破ることにした。もしすでに熱中症だった場合には、一刻の猶予もないはずだからである。

 ガラスの破片が散乱することを考え、蹴破る場所は子供から一番遠い助手席の窓にした。付近の人にどいてもらい、一度目に蹴りを入れると勢い余って狙いが外れ、窓上部の庇のようなものを破壊することになった。二度目の蹴りは窓ガラスにあたったが、割れない。すると後ろで見ているオヤジが「丈夫だよ~。車のガラスは丈夫だよ~。割れないよ~。」などとのんきなコメントをしやがる。そう思うんなら見てないでハンマーでもなんでも持ってきやがれと思うが、言い争いをしているような暇はない。全力で三度目の蹴りを入れると、今度はガラスは粉々に砕けた。慌てて後部座席のロックを外すと、取り囲んでいた人の一人が子供を抱え上げる。子供は気が付き、激しく泣き出した。いつの間にか騒ぎを聞いて現れた母親と思しき女性が子供を受け取り、「ありがとうございます」を繰り返しながら私やら周囲の人々やらに何度もお辞儀をする。

 まあとりあえず子供が無事だったので、よかったですね、などと言いながらその場を立ち去った。

 で、実はここまでは前振りであり、本題はここからなのである。前振りが長いのである。

 その場を立ち去りながら、子供が無事で安心したせいか今度はむやみに腹が立ってきた。車を揺すっていた連中のことである。屈強な男性たちも混じっていたというのに、車を揺すったりガラスをたたいたりして時間をかけ、子供が死んだらどうするつもりだったのか。子供の反応はなかったのに、さらに時間をかけるつもりだったのか。なぜ即座にガラスを破る決断をしなかったのか。ひょっとして、車の窓を破壊して、所有者に苦情を言われたり弁償を要求されたりしては困るとでも考えたのか。

 だが、仮にこちらの判断が間違っていて車の修理代を出すことになったとするならば、出せばいいだけの話だ。自分の子供を助けてもらってそんな要求をするやつもそうはいないと思うが、最悪払うことになったところで、たかが金の話である。それで子供が助かるならば、全く問題はない。苦情を避けたり修理代を惜しんで子供が死ぬよりも、子供が助かって修理代を取られたほうが、100倍マシである。事は人の命である。なぜそんな簡単な判断を、あそこにいた大勢の大人の一人もしなかったのか。物事の優先順位というものが、わかっていないのか。

 最近この話を思い出したのは、物事の優先順位がおかしくなっている大人によって、子供が命を奪われる事件が続いたからだ。虐待を行う親の元に、親の要求に屈して子供を返し(子供は助けを求めていたのに)、虐待死させてしまった。子供を守るべき学校の教師たちが、親の抗議をおそれて親の虐待を相談した子供の文章を親に見せてしまった。児童相談所は親の抗議をおそれて、親の要求通り子供を家に帰してしまった。その結果子供が死んだ。

 これは、学校は子供のためにこそ存在するものであり、また児童相談所も子供のためにこそ存在するものであること、だから優先順位の最上位は子供でありそのために行動できなければ自分たちの存在価値は全くのゼロであるということを、忘れた人々がいたために起きたことである。そしてこれは学校や児童相談所に限った話ではない。あらゆるところに、物事の優先順位を見失った人々の姿が見える。

 ただ、まっとうな優先順位の判断とその実行、それに伴う闘いなどを、すべて個人の自覚や決意に求めるというのも、酷なことである。人間はそんなに賢くも強くもない。

 だから、まっとうな物事の優先順位が社会の共通認識になるよう常に働きかけ、それに基づいて職務を果たそうとする人を守る仕組みを整備し、だれもが迷わず行動できる職場や社会を作ろうとする力が必要だ。

 労働組合も当然のことながらその一端を担うべきだ。

 しかし、たとえば自治体などの役所とその仕事が住民のためにこそ存在しているのであり、優先順位の最上位は住民であることを忘れているとしか思えない労働組合などを目の当たりにすると、まずは自らが物事の優先順位を学ばなければならない労働組合も多いと感じる今日この頃である。

≪ 前の記事 次の記事 ≫

PAGE
TOP