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学歴に序列意識を持ち込む残念な感覚

浦野 高宏2020年5月 1日発行

 「学校をやめたら高卒になる。就職はどうするのか」。最近問題になった、武漢肺炎・新型コロナにかかわる学生への支援に関連した、野党議員の国会での発言である。まるで「高卒」がいけないことであるかのようなこの発言には多くの批判が集中し、結局、謝罪して撤回することになった。しかしその謝罪の言葉がまた「高卒で頑張っておられる方々に失礼だった」というものだった。

 「高卒で頑張っておられる」とは、どういうことか。大学に行きたいのに行けなかったがそれにもかかわらず頑張っているということなのか。高校で社会に出るひとびとは、本当ならば大学や大学院に行きたかったが行けなかった気の毒な人たち、という感覚なのだろうか。なぜ、大学に行こうが高校で社会に出ようが、単なる選択肢の一つと思えないのだろうか。中卒だろうが高卒だろうが大卒だろうが、頑張っている人はみんな頑張っている。「高卒で頑張っている方」などという発言は、この当然のことを理解していれば、そもそも思いつかないはずである。それが自然に出てくるということは、高校卒業で働く人について「大学に行けなかった気の毒な方々」という感覚を、彼女の根深い部分、無意識の部分で持っているからに他ならない。きわめて差別的であり、しかも無自覚であるがゆえに深刻である。

 私の父は最終学歴は中学校で、卒業後すぐに遠洋漁業の漁師になった。漁師をしながら航海士の資格を取り独学で英語とスペイン語を身に着け、船では船長・漁労長を務め、水産会社が南米に合弁会社を作る際には現地の政府および企業との交渉役を務めた。

 もし父が大学に進学していた場合、どうなっていたかはもちろんわからない。しかし身近で見ていた者からすると、中学卒業という年齢的にも若い時点で海外の現場で働いたことは、そのご自らが必要とするスキルを発見する意味でも、非常に有利だったと思う。中卒ですぐに働いたからこそ、語学や航海士の資格などの必要性を早い段階で肌身に感じることができ、若いうちに挑戦できたのである。中卒だからこそ、その後の活躍が可能になったともいえる。大学まで行って社会に出るのをもたもたしていたら、こうはならなかったかもしれない。

 学歴などというものは、所詮その程度のもので、大卒が人生にとって有利に働くとは限らないし、中卒が不利に働くとも限らない。あたりまえである。

 社会で多くの人々と出会うと、その人の能力と学歴は関係ないことに気づく。私は高校時代にすぐに社会に出て働く度胸がなく、大学に逃げ込んだ口だが、世の中で出会った人々の中には、大学などに行っていなくても聡明さや博識さ、人間としての包容力や迫力など、これは全くかなわないと思う人が多くいた。一方、有名大学を出ている横綱級のバカも、やたらと多い(私の派遣元がそうである)。こうした経験を重ねると、人間の力と学歴は関係ないことを実感する。

 「高卒になってしまう」発言の議員は、人生の中でそうした経験をしなかったのだろうか。これまで付き合ったことのある人間は、すべて大学卒業者だったのだろうか。それとも、大学を出ていない立派な人たちと出会っておきながら、大学を出ていないというだけでその立派さが目に入らなかったのだろうか。長い人生を送っている人であるから、前者である可能性は低く、後者の可能性が極めて高いと、私には思える。

 現在、野党に対する支持率は、地を這うレベルである。これは、仕方がないことだ。国民がそのようにしか評価できない、そんな立ち居振る舞いしかできていないのだから。冒頭に引用した発言も、「人間」というものへの無理解と無感覚さが、そうした状況を続けている野党を象徴しているように見える(もっとも与党は与党で公選法違反の疑惑だらけの元法相夫妻の事実解明から逃げていて、責任政党の義務を果たしていないと多くの国民が感じているが)。 これでは困る。民主主義社会では、国民の心に寄り添う健全な野党の存在は大変重要である。人間というものを深く理解し行動できる、そういった人々に野党にも多く存在していただかなければ困る。そのためにも大いに反省し、自らのだめさ加減を自覚し、恥じ、生まれ変わるつもりで努力していただきたい。

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