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リスクを避けるリスクについて

浦野 高宏2020年9月15日発行

 だいぶ前のことだが、昼食に「パセリサンド」なる弁当を持ってきた同僚がいた。

 「パセリサンド」とは何のことかと思うかもしれないが、その名のとおり、食パンにパセリを挟んだものである。というか、パセリ以外は何も挟まれていない。食パンとパセリ。以上である。そして、それが昼飯だというのである。

 いったいどうしてそんなことになったのか。まず私の脳裏に浮かんだ疑問はそれであった。何か考えがあってのことなのだろうか。しかし、どのような考えがあったとしても、その結果がおかしくはないか。なにしろ、純パセリサンドである。間違いなくおかしい。とすると考えた末の結果ではなく、やむを得ざる経済的な事情なのだろうか。しかし、彼は同期であり、同期であればほぼ給料は変わらない職場である。また、遊びに金を使うような奴でもない。だから、経済的な事情は普通では考えにくい。とすると何か重大な事態が突然彼におきて、困難な状態に置かれているのかもしれない。そうに違いない。こんな時にこそ相談に乗るのが友人というものである。私はさっそくパセリサンドについて、その事情を遠慮なく話してくれるよう、彼に言った。私にできることがあるならば、何でも言ってくれ、と。

 で、説明を聞いてみると、食品添加物を避けようとしたらこうなった、とのことだった。彼によると、ハムなどには食品添加物が多く使用されている、マーガリンなども体に悪いと聞いたのでこれを避けたという。そして何かほかにパンに挟むものはないかとさまざま検討をしてみたが、どの食品もそれぞれリスクがあり、それらを消去していった結果、パセリサンドに行きついた、というのである。

 つまり、私が最初に可能性を排除した「考えた末におかしな結果にたどり着いた」という、まさにそれだったのである。そういえば、この男はいつも考え抜いた末に見当はずれの結論にたどり着く奴であった。パセリサンドが気になって、肝心なことを忘れていた。突発的事態と経済的事情の方が改善の余地の点からまだましだったが、それはまあいい。

 そこで私が思ったのは、そこまでリスクを避けるのならパンとパセリはどうなのか、ということだ。特にパセリなどは農薬が使われていそうではないか。しかしそこを問い詰めると、彼の食べるものがなくなってしまう。人間、霞を食って生きられればいいが、そうもいかない。ここは、とりあえず何かを食べているだけでも良しとするべきだろうと、考えた。「それにしてももっとバランスを考えた方がいいと思うぜ」とは伝えたが、あまり人の意見を聞くつもりはなさそうだった。

 それからしばらくして、その男は体調を崩し、入院をすることになった。肝臓の病気だという。パセリサンドとの因果関係は不明だが、私には大いに関係しているように思えた。肝臓をはじめとする内臓に必要な栄養素が、不足していたのではないか。いや、不足していないはずがない。ほかの食事もパセリサンド並みのものだったはずだ。だとすれば、その結果、栄養不足で抵抗力が落ち、やがて病気になったのであろう。私はそう考えた。

 一方私はといえば、添加物などはまあ気にせず、何でもおいしくいただく。今の時代、本当に危険な添加物など許可されているはずがない。そんなものを気にしていたら、栄養になるものも栄養にならなくなってしまう。その方が体に悪い。そういう考えで、食べ物であれば何でもありがたく貪り食う。おかげで、60年近い人生、病気といえば数年に一度の風邪くらいだ(その風邪すらも、最近はうがい手洗いマスクを徹底しているせいか、ひかない)

 さて、コロナ禍で社会活動・経済活動をどうしていくのか議論が行われている今日こんな話をするのであるから、言いたいことはおわかりいただけよう。リスクとその管理の話である(そもそもタイトルがそうだが)

 目先のリスク(添加物など)にこだわりすぎた人間は、見境なくそれを避けるという行為自体によるリスク(栄養不足)に陥り、体調を崩すことになった(と私は確信している)。一方、個別のリスク(添加物など)は受けつつ、何でもおいしくいただいた人間()はそれによりさらに大きなリスク(栄養不足)を避けることができ、健康である。

 もちろん、いまのコロナ禍という状況下での社会活動・経済活動についても、コロナのリスクと、コロナリスク回避のリスクの、そのバランスをどのあたりに求めるかで議論が行われていることは承知している。ただ、この手の議論をする場合、コロナにしても放射性物質にしても、目先のリスクの方が一般の耳目に入りやすくまた専門的知識のない人の方が圧倒的に多いため、声高になりがちだ。リスクを総合的に判断しようという側に対して、目先のリスク回避を唱える側が「こちらが正義であり異論を唱える者は悪である」ということになりやすい。「金で命を売るのか」、というような議論である。私としては、こういう姿勢こそが社会に判断を誤らせるという意味で、最大のリスクであると考える。

 単純明快な議論はわかりやすいが、考慮する範囲が狭いので危険である(添加物を避けて栄養不足)。一方広い範囲を考慮しての議論は、わかりにくいが危険を回避しやすい(添加物もとるがバランスの取れた栄養)

 わかり切った話だと思われる方も多いとは思うが、世の中ピンチになるほど単純明快で危険な結論に飛びつく人間が次々に出てくるので、あえてこのような話を書かせていただいた。人間はリスクとそれに対するメリットのバランスを探りながら、全体としてマシな結果を模索していく生き物であり、そういう姿勢こそが結果としてより良い判断にたどり着ける。安易に「リスク」を特定しその排除を求める姿勢は、ほぼ確実にもっと大きなリスクを見落としており、それ自体が大きなリスクである。

 コロナ禍の中での社会活動・経済活動についての議論は、これからも続いていく。視野を広く持った議論を行っていきたいものだ。

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