「予算がない」を超えて――実物制約から考える社会の再設計
松岡 康司2026年4月28日発行
「やりくり」の思考から、リソースの「設計」へ
新しい政策が議論される際、必ずと言っていいほど「財源はどうするのか」という問いが立ちはだかる。子育て、介護、気候変動対策――いずれも社会的必要性が高いにもかかわらず、「予算がない」という一言によって思考が停止してしまう場面は少なくない。
しかし、ここで私たちは一度立ち止まり、「国家を家計と同一視する見方」に過度に依存していないかを問い直す必要がある。自国通貨を発行できる政府にとって、お金は外部から獲得してくる希少資源というよりも、公共目的のために用いられる制度的な記号である。重要なのは「いくらでも発行できるかどうか」そのものではなく、お金があくまで社会的な調整手段であるという位置づけの理解である。
限界を決めるのは「通帳の数字」ではなく「現場の供給力」
現代貨幣論(MMT)をめぐっては、「お金をいくらでも発行できる」という側面のみが強調されがちである。しかしその重要な示唆はむしろ逆方向にある。すなわち、貨幣的制約は可変である一方で、経済の真の制約は実物資源の側に存在するという点である。
政府が支出を拡大したとしても、医師・看護師・介護人材が不足していれば医療・福祉は機能不全に陥る。物流や建設、エネルギー供給といった領域でも同様であり、供給能力を超えた需要は、結果として物価上昇という形で調整される。
この意味で、経済の上限を規定しているのは財政収支ではなく、人材・設備・技能といった「実物的な供給能力」である。そして税の役割もまた、単なる財源確保ではなく、過剰な需要を調整し、実物資源の逼迫を防ぐマクロ経済的な安定装置として理解することができる。
私たちの「時間」という最も希少な資源
お金が制度的に設計された記号であるとすれば、最も希少で代替不可能な資源は何か。それは一人ひとりの時間と労働である。
この非対称性を直視すると、社会設計の問いは大きく変わる。「どれだけ効率的に予算を配分するか」ではなく、「限られた人間の時間を、何のために用いる社会にするのか」という問いが中心に据えられるべきである。
経済を単なる数値の拡大競争としてではなく、有限な時間と能力の配分システムとして捉え直すとき、政策議論は新たな段階に入る。それは市場の評価軸だけでは捉えきれない公共的選択の領域である。
エッセンシャルワークの再評価と制度的責任
この視点に立てば、医療、介護、保育、教育、インフラ維持といったエッセンシャルワークの位置づけは再考を迫られる。これらは単に市場に委ねられるべき労働ではなく、社会の存立基盤を構成する不可欠な機能である。
したがって、これらの分野に対しては、市場が形成する水準に委ねるのではなく、社会的必要性に基づく安定的な人材確保と処遇の仕組みが求められる。それは倫理的要請であると同時に、社会機能を維持するための制度的要請でもある。
重要なのは、この対応を単なる再分配政策としてではなく、実物制約のもとで社会を持続可能に設計するための必然的な選択として理解することである。
「労働」から「仕事」へ、そして「活動」へ
ハンナ・アーレントは、人間の活動を「労働」「仕事」「活動」の三つに区分した。すなわち、生存維持のための反復的活動としての「労働」、持続的な人工世界を構築する「仕事」、そして公共的領域における対話と行為としての「活動」である。
実物制約を踏まえつつテクノロジーを適切に活用するならば、生活維持のために費やされる「労働」の比重を徐々に縮減していくことは可能である。ただし、それが直ちに「活動」へと転化するわけではなく、制度的条件や公共空間の設計が伴って初めて意味を持つ。
そのうえで、社会の時間配分を「生存のための労働」から、「意味を生み出す仕事」や「公共的な活動」へと段階的に移行させていくことが、長期的な課題となる。
おわりに――時間の配分をめぐる民主主義へ
「人間の有限な時間を、何のために投じるのか」という問いに立ち返るとき、お金は私たちを拘束する制約条件から、社会を設計するための手段へと位置づけ直される。
その先に見えるのは、多様な人々が経済的不安から解放され、その時間を尊厳をもって社会や自身のために使える環境であり、ひいては地域課題や文化形成に主体的に関与できる社会の実現である。
こうした社会像の実現においては、労働組合をはじめとする多様な社会的アクターが、資源配分と制度設計をめぐる熟議の担い手として、これまで以上に重要な役割を果たすことになるだろう。
経済を「予算制約の物語」から解き放ち、「時間の配分をめぐる公共的意思形成」として捉え直すこと。その視点の転換こそが、持続可能で包摂的な社会を構想するための出発点となる。
【関連リンク】
AI・デジタル時代の「支え合い社会」の在り方に関する調査研究
https://www.rengo-soken.or.jp/work/2024/10/281041.html