日本独特の「お互いの信じ方」
File.52023年8月17日発行
長いお休み、失礼しました
ホームページにおいてコラムの項をいただいておきながら、4月17日掲載分を最後に、えらい長いことサボってしまった。理由はいろいろあるのだが所詮は言い訳に過ぎないのでここでは云々せず、本日再開以降の本コラムにて、場合によっては触れさせてもらうこととしたい。
いずれにしても古賀前理事長が毎月必ず出稿されていたのにくらべてなんと私は怠け者か。これからは感じたことをその都度、あまり整っていなくても随時出稿することとし、頻度をあげていきたい。そして、かしこまった感じの物言いはDIOの巻頭言に特化させ、このコラムではできるだけざっくばらんに、思い付きも含めて触れていくこととしたい。そのため今日からはデスマス調ではなくデアル調を基本として述べることとしたい。どうかご理解のほどを願う次第である。
日本語の持つ危険な「あいまいさ」
つい最近あらためて痛感したのだが、日本語には危険な「あいまいさ」がある。あるいはこの日本語をあやつる我々日本人には危険な「あいまいさ」がつきまとう。
私自身は日本語という言語は素晴らしい言葉であって、英語をはじめとした他の言語にはない、微妙なところの表現力があると思っている。大昔に様々なところからこの日本列島にたどりついて一つの民族としてのかたまりを形成した私たちの祖先が、もともとの漢字に複数の読み方を付与し、他方でその漢字を流用し発明した「ひらがな」と「カタカナ」を駆使するというものであるから、それだけの表現力を担保しているのであろう。
しかしその素晴らしい日本語が表現できる範囲はあまりにも広く、そしてまたその使い手の日本人がお互いの意思疎通における「阿吽の呼吸」なるものを珍重してきた結果、驚くようなあいまいな物言いを許すような言葉になってしまっていることに、私たちは相当の注意を要すべきであろう。
その究極は「結構です」という言葉ではなかろうか。YESかもしれないしNOかもしれない。その場の状況でわかるでしょう、と言われるかもしれないが、果たしてそう言い切れるものだろうか。YESと言われたつもりでNOだったというケースは、世の中において決して少なくはなかったのではないか。ある意味でトンデモナイいい加減な言葉だ。とてもじゃないが国際標準にはなり得ない。
日本独特の「お互いの信じ方」
こんなあいまいな言葉づかいでお互いを信じるというのが私たち日本人なのだ。私もこの「あいまい構造」に煮え湯をのまされてきた経験を何度か持っている。話をするたびにゴールポストを動かされ、ハードルを少しずつ上げられ、カメレオンのように色を変えられ...。
話の中味が笑い話で済まされるようなことであれば、そのカメレオン技術をほめたたえればいいだけの話だが、ことは日本の当面の政治構造を決するような問題であったり、組織運営の要諦を揺るがすような話であったり、人の生きざまそのものを左右する話であったり、忘れようにも忘れられない話が様々ある。
ふと思うが、デジタルに弱い日本人の本質は、こういうところにもリンクしているのではなかろうか。独特のあいまいさに安住するのが実は心地よいのではなかろうか。たとえ持続性が日々むしばまれていたとしても。
連合総研 理事長 神津里季生