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前理事長コラム
『時代を見つめる』
古賀 伸明

「ナヴォイ劇場」

File.232017年11月30日発行

中央アジアは広義にはユーラシア大陸中央部で、ゴビ砂漠からカスピ海に至る地域をさすが、ユーラシア大陸の中央部にあるカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの五カ国を総称して、中央アジアと呼ぶこともある。あまり馴染みのない国と言ったら叱られるだろうか。少なくとも私にはそうであった。1880年代まではロシア帝国の支配下にあり、1917年のロシア革命後、社会主義共和国としてソ連の傘下に組み込まれ、1991年のソ連崩壊とともに新独立共和国として誕生した。

中央アジア・五カ国の一つであるウズベキスタンは、タシュケントを首都とし、人口約3000万人、他の4国すべてと国境を接する唯一の国家である。日本は1991年ウズベキスタンを正式に国家として承認、1992年に日本とウズベキスタンは正式に国交を樹立している。

そのウズベキスタンにあるナヴォイ劇場を、皆さんご存知だろうか?私はつい最近、タシュケント生まれで、現在日本の大学で教鞭をとる政治学の教授から話しを聞くまで、その劇場の存在を全く知らなかった。その劇場は、ソビエト連邦の捕虜であった日本人(兵)が2年をかけて建設し、1947年に完成した劇場だ。ソ連は、1917年11月のロシア革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていたものである。捕虜であるから強制労働としての建設であったが、責任を持って仕事に取り組む日本人(兵)の姿勢に、現地の人たちは尊敬の念をもって接したとのことである。1966年4月26日のタシュケント地震では、78,000棟の建物が倒壊するもナヴォイ劇場は無傷であり、市民達の避難場所としても機能したという。

こんなエピソードも残っているそうだ。建設時、作業する日本人に対して地元の子どもから食べ物の差し入れが行われたが、彼らに対して手作りの木のおもちゃをお返しするなど劣悪な環境でも礼儀を忘れなかったと伝えられている。また、劇場裏手の記念プレートには以前ウズベク語とロシア語、英語で「日本人捕虜が建てたものである」と書かれていた。独立後大統領に就任したカリモフ氏は、これを見て「ウズベクは日本と戦争をしたことがないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、「捕虜」と使うのはふさわしくないと1996年に新たなプレートに作り変えられた。「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語の順に刻まれているという。彼は最後に"ウズベキスタンは、日本人が知らない親日国なのです"と語った。機会があれば、一度訪れてみたいものだ。

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