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多様性を認め合うことの難しさ~「当たり前」から個性の時代へ~

石黒 生子2023年11月 2日発行

多様性の時代と言われて久しい。多様性を受容する社会へ変化することにより、従来の制度や法律、社会規範との齟齬が生じている。そのため司法的な判断が求められることも多くなっている。最近では、戸籍上の性別変更の際に手術が必要という規定が違憲であるという最高裁の判決も出て、時代の変化を実感した。多様性を容認することにより、今まで当たり前とされてきたルールや規範がなくなり、各人の個性や判断が優先されるようになってきた。窮屈なルールがなくなり自由に振る舞うことができることは、すべての人々にとって生きやすい社会への変化に違いない。しかしながら、一方で難しさも感じることもある。

規律ある美しさの終焉~外見では誤魔化せない時代の到来?~

 クールビスやカジュアルな職場の進展により、ビジネスウェアが変容しつつある。今年は猛暑と厳しい残暑に対応してとにかく暑さ対策という服装が街に溢れたが、数年前までは9月に入るとクールビズが終わり、通常のビジネススーツにネクタイを締めたサラリーマンが暑そうに街を歩く姿が季節の風物詩となっていた。さらに前の時代は、酷暑の中でもネクタイを締めて、というのがビジネスマンとして当たり前だった。いまではビジネススーツにネクタイを締めているのは、一部のいわゆる「硬い職業・職種」の人と就職活動中の大学生くらいで、クールビズ・ウォームビズなどの温暖化対策ともに、IT企業などのカジュアルな職場では、Tシャツやセーターで出社しスーツなんか持っていない、という従業員ばかりという会社もある。

 メンズウェアの仕入れをしていたものとしては、やはりビジネスシーンでは、ビシッとネクタイ締めて、カジュアルシーンではリラックスした服装でとシーンに応じた着こなしをしてほしいのだが。ビジネススーツは就活生のためだけになり、企業によってはカジュアルな服装で面接をおこなっているところもあり、一生ビジネススーツを着ない人たちも存在する時代となるのだろう。

 ビジネスシーンでの着こなしには、様々なルールがあり、ルールを守っていれば安心、言い換えれば、個性のない画一的な服装への社会的な強要である。その最たるものが制服であろう。「一糸乱れず」を美しいと感じる向きもあろう。規律ある美しさというものは、確かに存在する。カジュアルな服装というものは着心地は快適で楽だが、だらしなく見えがちである。一方、スーツにネクタイを締めていれば、やる気があるように見える便利さもある。外見で胡麻化すことができない厳しい時代となったとも言えるかもしれない。

「型破り」と「形無し(かたなし)」 ~どこまでが基礎でどこからが個性かの見極めの難しさ~

 一方、日本では外見や規範、そのための規律にこだわる伝統があるのではないか。例えば「型」というものは、日本の伝統芸能では大切な要素で、「型」に関連する言葉も多くある。多くの日本の伝統的な舞台芸術の表現は、「型」の習得から始まる。個人の独創性、個性などというものは基本的には認められない。寸分たがわず、師匠と同じことができるように「型にはめる」ことが一人前になることである。その過程を「サイボーグ」のようだと表現していた狂言師もいる。型を習得してから工夫をこらし、変更することを「型破り」と言い、出来映えにより成否の評価が分かれるところである。一方、型の習得のできていないのに勝手なやり方をするのは「形無し(かたなし)」と言われ、評価にも値しないこととされている。高度な技術の習得なくして、個性などというものは認めないという考え方であろう。

 個性とは「あなたとは違う私」、「今までとは違う新しさ」の表現であるとも言える。多様性を認めるということは、それぞれの個性を尊重することに他ならない。しかし、特に教育段階での基礎や基本という誰もが習得しなければならないことや、だれもが守らなければならない規律までを無視してよいのか?どこまでが最低限の規律であり、しつけなのか?「しつけ」や「マナー・基礎的な技術の習得」と個性の尊重は異なることは理解できても、その線引きは難しいこともある。

指導とハラスメントとの根本的な違い~人権侵害はどのような場面でも許されないが~

 また、会社においても多様性の時代における指導のあり方が課題となっている。職場でのハラスメントについて、指導との線引きが難しいと会社の担当者の多くが認識していることが、アンケート結果にも表れている。先ほど述べた教育(修行)段階におけるしつけやマナー・基礎的な技術の習得を優先し、個性や独創性を認めない日本の伝統芸能のあり方と似ているが、相手の個性などを認めない一方的・画一的な指導がハラスメントになるのか、線引きは難しいと感じる人もいるかもしれない。実際、ハラスメントの加害者の多くは、被害者からの訴えがあっても、自覚しないことが多い。ハラスメントと指摘された言動について加害者は、指導の一環に過ぎず、行き過ぎた言動が若干あったかもしれないがハラスメントではない、と考えていることが多い。「そんなことまでパワハラと言われては、まともな指導もできない」という発言は、ハラスメント加害者のみならず指導的な立場にある人々からしばしば聞かれる。

 「DIO」20239月号 では、同質的な職場環境がハラスメントを生みやすい職場環境となっているという指摘もあり、多様性を受容し心理的安全性が確保された職場ではハラスメントが生じることが少ないという調査結果も示されている。異質で多様な人間との良好な関係こそ、働きやすい職場の前提であり、一人ひとりを大切にするという労働運動の原点であると思う。一方で「統制」「結束」「連帯」が前提の労働運動の職場は、一つ間違えば、多様性の受容が困難な人々を生み出す環境となってきたかもしれない。すべての人々の人権を守ることは労働運動の大前提である。その大前提を再認識して、すべての労働組合、労働運動に携わる職場が、率先してハラスメントのない働きやすい職場となることを願っている。

【関連情報】

連合総研「DIO」20239月号

     特集「職場におけるハラスメント~現状と撲滅に向けた取り組みと課題~」

厚生労働省「職場のハラスメントに関する実態調査」(令和3年3月)

【参考文献】

『狂言サイボーグ』(2013年 野村萬斎著 文藝春秋ISBN-10 4167838451)

『十八代 中村勘三郎』(2013年 中村勘三郎著 小学館 BK9784093965163

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