外国人労働をめぐる議論のその先へ~私たちはどのような社会を目指したいのか~
千谷 真美子2025年12月25日発行
日常生活を送るなかで感じる違和感
最近、外国人や移民をめぐる言葉が強い響きを帯びて語られる場面に遭遇する機会が急激に増えているように感じる。その背景には、多くの人が日常的に外国人を目にする機会が増えており、私たちの生活圏において外国人がすでに「特別な存在」ではなくなっていることもあるだろう。近所の商店や電車の中などの公共空間はもちろん、地域の職場や子どもたちが通う学校においても、外国にルーツをもつ人々と顔を合わせる光景は、いまや決して珍しいものではない。外国人が日常風景の一部となりつつあるからこそ、これまで日本人にとって「当たり前」と思われてきた社会のあり方が揺らぐのではないかという不安を抱く人が増えているのではないか。
一方で、実際に職場や学校で顔を合わせる場面において外国籍の方と向き合う場面では、同じ職場の仲間や同じ年代の子どもを持つ親同士として、国籍や人種を殊更に意識することなく接しているのも事実であろう。
私たちは、日々の生活のなかで一人の「人」として向き合っている「外国人」に対し、議論の対象となる「外国人」に対して向けるのと同じ言葉をぶつけることができるのだろうか。
不安の正体はどこにあるのか
急激に進む少子高齢化、物価の上昇、世界各国で生じている戦争。今私たちの周囲では将来に対する漠然とした不安が高まっている。
匿名的な集団としての「外国人」をめぐる議論においてしばしば耳にするのは、外国人労働者が増えることで「日本人の仕事を奪われるのではないか」、「日本人の賃金が下がるのではないか」、「日本の社会保障制度が悪用されるのではないか」、「日本の治安が悪化するのではないか」といった言説である。しかし、こうした言説の多くは、統計や制度の運用実態に対する理解が不十分なまま語られていることが少なくなく、その結果、必要以上に不安が増幅されている側面があることは否めない[i]。断片的な情報や印象に基づく議論が先行することで、問題の所在が曖昧にされている。
私たちは、将来に対する漠然とした不安を、近年目にすることが多くなってきた外国人に対する不安へと安易にすり替えてしまうことで、本来議論を行うべき持続可能な社会保障の在り方などの将来課題に目を背けてしまっているのではないだろうか。
「日本人がやりたがらない仕事を外国人に」ではなく「外国人なくして日本社会が維持できない」という現実
私は先々月外国人労働政策についての取材を受けた。その際、特定技能制度等によって就労資格の拡大が行われている分野は既に日本人だけでは求人を充足することができず、結果として事業の継続が困難になっている分野であること、そしてそうした分野の多くは労働集約型サービス業であり、人々の日常生活に密接に関わる分野であることを説明した。なかでも介護分野については、公的保険に基づいてサービスが提供されていることから労働市場の需給調整機能に委ねるだけでは賃金の上昇が見込まれにくいという構造的な問題がある。こうした状況の下で、今後、人口規模の大きい団塊ジュニア世代が支え手から介護を必要とする側へと移行していくにつれ、介護分野における労働供給不足が加速する可能性は極めて高い。したがって、議論すべきは、外国人労働者の受入れの是非にとどまらず、社会保険料や介護保険サービスにかかる利用料の負担増を受け入れるのか、あるいは支え手の不足を甘受しこれまでと同様のサービスを受けられなくなることを容認するのかといった選択も含めて総合的に考える必要がある。私は、このような観点を踏まえつつ、今後どのような社会を目指すのかについて国民的な議論を行う必要があるということを強調した。
しかし、実際に公表された記事では「賃金水準が低く、日本人がやりたがらない介護分野などにおいて外国人を受け入れないのであれば日本人の生活水準が落ちてしまう懸念がある」といった形でまとめられていた。これを読んだ読者の方は、外国人労働者が日本人と同様に、等しく人的尊厳を有する存在であることに思い至ることができるであろうか。字数の制約もあったであろうことは理解するが、このような整理のされ方は、私が取材を通じて伝えたかった政策的論点や人権配慮の必要性を適切に伝えたものとは言い難く、非常に残念であった。
外国人も日本人も等しく労働者としての保護が認められている
いうまでもなく、介護や医療、建設、サービス業など、外国人労働者が多く働く現場には、誇りをもってこれらの仕事に従事している多くの日本人がいる。これらの仕事は、決して「日本人がやりたがらない仕事」でもないし、その労働の価値が低いわけでもない。ましてや、日本人がやりたがらない賃金水準の低い仕事は外国人に担ってもらえばよいという考え方は、それ自体が人種差別的であり、決して許されるものではない。日本で働く労働者については、外国人であるか日本人であるかにかかわらず、労働者としての権利が等しく保障されている。労働基準法第3条では国籍を理由として労働条件について差別的取扱いを行うことが明確に禁止されている。
外国人労働者を受け入れるに当たり、私たちはこの点を十分肝に銘じる必要がある。日本人がやりたがらない賃金が安い仕事を外国人に担ってもらうという話ではなく、生産性向上や技術革新による省力化を尽くしてもなお日本人労働者による労働供給が需要に対して不足する状況が生じているなかで、外国人労働者を受け入れることにより従来のサービス水準を維持するのか、それとも外国人を受け入れずにこれまでのようなサービスを享受できないことを甘受するのかという選択なのである。
受け入れる対象は「労働力」か、それとも「人」か
ここで改めて確認しておかなければいけないのは、外国人労働者の受入れは、日本で不足する労働力を補うという単純な問題ではないということである。それは、日本で働き、地域社会で日常生活を送る生身の人間を迎え入れることである。受け入れられる外国人にはそれぞれの人生があり、家族があり、希望や不安がある。「郷に入れば郷に従え」という言葉がしばしば同化を求める圧力として使われることがある。確かに、日本で暮らすに当たり、地域の一員として、その地域のルールを知り、地域に溶け込むための一定の努力を求めること自体は重要である。しかし、その際に私たちに求められるのは、一方的な押しつけではなく、ともに地域で暮らす仲間として、互いの人格と個性を尊重し、それぞれの違いも認めながら支えあう社会を構築する姿勢であろう。逆に言えば、生活者として迎え入れる責任を引き受ける覚悟もせずに、不足する労働力を補うことだけを目的として安易に外国人労働者の受入れを行うことはあってはならない。
おわりに
今後、日本は生産年齢人口が大きく減少し、労働力不足が進行していくことは紛れもない事実である[ii]。そのような状況の下、私たちは今後、どのような社会の構築を目指すのか。まずはこの問いに対し、正確なエビデンスに基づいて真摯に向き合い、外国人労働者を受入れるか否かについての判断を行うことが求められている。そして、仮に外国人労働者を受け入れる判断をするのであれば、外国人も含め、すべての人の人権が尊重され、安心して生活できる社会を構築していかなければならない。
[i] 今月のデータ「外国人労働者は本当に日本社会を不安定化させているのか」連合総研レポートDIO No.414(2025年12月号)参照。 https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio414-d.pdf
[ii] 前掲注[i]図表9参照。
【関連リンク】
連合総研レポートDIO No.414(2025年12月号) 特集「転換期にある外国人労働政策~育成就労制度の導入を前に~」 https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio414.pdf
連合総研「研究員の視点 分断と排除の先には何があるのか」 https://www.rengo-soken.or.jp/column/2025/04/232210.html